単独統治
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歴史家プリスクスによると、ある羊飼いが土中から剣を掘り出しアッティラへ献上した。アッティラはこれを喜び、これを軍神マルスの剣であると信じ、自分は全世界の支配者になる運命であると自信を持ったという。 447年、アッティラは南下し、モエシアを通って東ローマ帝国領へ再び侵攻した。ゴート族の軍司令官、(マギステル・ミリトゥム)アレネギスクロスに率いられたローマ軍は、ウトゥスでアッティラと戦うが敗北。フン族は抵抗を受けずにトラキアまでのバルカン半島を略奪した。コンスタンティノープルは総督フラウィオス・コンスタンティヌスによって城壁が再建され(地震により損傷していた)、また幾つかの箇所で新たな防御線が築かれており助かった。この侵略の生き残りの記録は以下のように述べている。 トラキアにいる野蛮なフン族はとても強大になり、数百の都市が奪われ、コンスタンティノープルも危険になり、多くの人々が逃げ出した……そしてたくさんの人々が殺され、血が流されて、死者の数を数えることもできない。ああ、彼らは教会と修道院を奪い、大勢の修道士や修道女たちが虐殺された。(カリニコス著『聖ヒュパティオスの生涯』) 449年、東ローマ皇帝テオドシウス2世はアッティラの元へ使節を送ったが、その中に歴史家プリスクスがいた。プリスクスは使節をもてなす豪華な饗宴の中で、アッティラの食器だけが非常に質素で、彼の振る舞いが清廉だったことを記録している。テオドシウス帝は使節の中に刺客を潜ませていたが、暗殺は失敗に終わった。アッティラは東ローマの使節を罰することなく、丁重に送り返した。 450年7月、東ローマ皇帝テオドシウス2世が崩御し、マルキアヌスが後を継いだ。軍人出身の新帝は強硬策に出て、貢税の支払いを停止した。
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単独統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 05:14 UTC 版)
父が死んだ時ヘンリク2世は40歳前後だったが、いくつかの難題をも受け継ぐことになった。最初の問題は、彼自身が父から権力を相続することに関する問題だった。ヘンリク1世の強大な権威は、血統による世襲統治地域だった低地シロンスクにしか及んでいなかった。ヴィエルコポルスカ南部とクラクフは長子領で、その統治者の地位はピャスト家の諸公達の中から選ばれる決まりだった(かつてのヴィエルコポルスカ及びクラクフ公だったヴワディスワフ3世は領地の全てをヘンリク1世に譲る内容の遺言状を残していたが、マゾフシェ公コンラト1世とヴワディスワフ・オドニツはこれを無視した)。 オポーレ=ラチブシュとサンドミェシュ(英語版)については、この地域の統治者であるミェシュコ2世とボレスワフ5世が未成年だったおかげで摂政としての権威を維持することが出来た。1年後の1239年にヘンリク2世は摂政の地位を追われたものの、オポーレとサンドミェシュの2人の公爵とは良好な関係を保ち、カリシュとヴィエルニを領有し続けた。しかし北部での情勢は複雑だった。ブランデンブルク辺境伯オットー3世はヘンリク1世の死を好機と見て、サントクの要塞を奪取してルブシュを包囲した。ヘンリク2世はこれを解放するためのルブシュの戦いに敗れ、サントクを喪失した。 この騒動の一方で、ヘンリク2世は父が約束していた補償の支払いを迫るマゾフシェ公コンラト1世、ヴワディスワフ・オドニツ及びグニェズノ大司教ペウカに率いられた教会勢力とのいざこざをも抱えていた。しかしヘンリク2世にとっては幸運なことに、この苦境は1239年6月5日にヴワディスワフ・オドニツが2人の幼い息子ボレスワフとプシェミスウ1世を残して世を去ると同時に一変した。この状況を利用して、ヘンリク2世はグニェズノを含むオドニツの遺領の大部分を奪い取り、オドニツの息子達にはナクウォ・ナド・ノテチョンとウィシチェのみを安堵した。 ヘンリク2世の次なる計画は挑戦的なものだった。彼は一族が代々続けてきた神聖ローマ皇帝家であるホーエンシュタウフェン家との同盟関係を破棄し、教皇グレゴリウス9世と結ぶことで、教会との軋轢を直ちに収拾した。更にコンラト1世との争いを終わらせ、2人の娘をコンラト1世の息子達に嫁がせた。長女のゲルトルダをボレスワフ1世と、次女コンスタンツィアをカジミェシュ1世とそれぞれ結婚させたのである。
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