官僚機構
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:52 UTC 版)
7世紀末に突如として畿内地方に出現した官僚集団は、九州の太宰府(倭京)から連れて来られたものである。ヤマト王権は九州倭国の官僚機構を引き継ぐことにより、政権に必要な人材を確保することができたと考えられる。 養老律令によれば9,000人以上の職員が宮殿や官衙(平城宮)で勤務していたとされるが、飛鳥京には9,000人もの職員やその家族を収容できるような宮殿も官衙も無い。 ヤマト王権は持統天皇8年(694年)に行政が常駐する都(藤原京)を建設し、文武天皇5年(701年)に大宝律令を制定して官僚組織を整備しているが、7世紀まで日本(畿内)には文字が無かったとされている。 奈良時代の下級官僚は薄給であり誤字等に対する罰金制度等があり、妻を質入れするほど困窮する者もあったと記録されている。知識階級でありエリートであるはずの下級官僚に対するヤマト王権の扱いは極めて劣悪である。 下記のとおり『続日本紀』神護景雲3年(769年)10月甲辰の記事にあるように8世紀になっても大宰府では学問で身を立てようと志す者が多かった。 大宰府言 此府人物殷繁 天下之一都会也 子弟之徒 学者稍衆 而府庫但蓄五経 未有三史正本 渉猟之人 其道不広 伏乞 列代諸史 各給一本 伝習管内 以興学業 詔賜史記 漢書 後漢書 三国志 晋書各一部 大宰府の役人が「この府は人の行き来や交易が盛んで日本で一番大きい都会ですが、府庫には五経しかなく三史がないので、学生や学者が、本が読みたくても本が読めません。伏してお願いします。学業のために列代の諸史を各1冊下さい。」と言上してきたので、天皇の命令で史記、漢書、後漢書、三国志、晋書各一部を賜った。
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