あすか‐の‐みやこ【飛鳥京】
飛鳥京
飛鳥京
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 22:56 UTC 版)
この飛鳥には天皇(大王)の宮がおかれたことがおおく、推古天皇が崇峻5年(592年)の豊浦宮(とゆらのみや)での即位から持統天皇8年(694年)の藤原京への移転までの、約100年間を日本の歴史の時代区分として飛鳥時代と称している。 また、永らく日本の政治・文化の中心地であったので、宮殿や豪族の邸宅などがたちならび、帰化系の人々も段々と付近に居住するようになり、なかでものちに有力氏族に成長した阿智使主(あちのおみ)を氏祖とする東漢氏がはやくから飛鳥にちかい檜隈に居をかまえていた。 6世紀半ばには飛鳥周辺に仏教が伝来して文化が発達していった。7世紀には、飛鳥は古代日本の政治と文化の中心地となり、都市機能の整備がおこなわれるなど宮都の様相を呈していたので、「倭京」もしくは「飛鳥京」とも呼ばれていた(『紀』)。 飛鳥時代には、豊浦宮が飛鳥の西方、飛鳥川をはさんだ対岸に置かれた。また小墾田宮は飛鳥の北側の小墾田(小治田)と称される地域にあったとされている。そのため、厳密には飛鳥におかれた宮ではない。豊浦宮は豪族の邸宅を利用していたと推定されており、隋の使者が往来するようになると小墾田宮を造営して、603年推古天皇が遷宮している。これは外国の使者の饗応にふさわしい宮殿が必要になったのだろうと推測されている。 また、古事記にしるされる允恭天皇の遠飛鳥宮、日本書紀にしるされる顕宗天皇の近飛鳥八釣宮については、前者がこの地で後者が河内飛鳥とする説、前者が河内飛鳥で後者がこの地とする説、両者ともに河内飛鳥とする説とがある。 なお、斉明と天武の間の天智天皇・弘文天皇(大友皇子)の両代では飛鳥をはなれ近江大津に近江宮がおかれた。 当地にあった天皇(大王)の宮 豊浦宮(推古天皇) 小墾田宮(推古天皇) 岡本宮(飛鳥岡本宮)(舒明天皇) 板蓋宮(皇極天皇) 川原宮(斉明天皇) 岡本宮(後飛鳥岡本宮)(斉明天皇) 飛鳥浄御原宮(天武天皇・持統天皇)
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