飛鳥京跡上層遺構の朝堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/26 19:45 UTC 版)
難波長柄豊碕宮のあと、重祚した斉明天皇は飛鳥板葺宮、川原宮を経て後飛鳥岡本宮と宮を転々とし、天智天皇・弘文天皇の近江大津宮、天武天皇の飛鳥浄御原宮、そして持統天皇の代には藤原宮とつづく。『日本書紀』には、飛鳥浄御原宮に朝庭や朝堂、大極殿などの施設があったと記しているが、吉田孝は、岡本宮、近江大津宮、飛鳥浄御原宮については「地形的にみて前期難波宮と同規模の朝堂院をつくることは困難であった」としている。ただし、飛鳥京跡の上層遺構からは朝堂の可能性のある建物跡を検出している。 飛鳥京跡とは、飛鳥地方に営まれた宮跡の総称であり、数十年にわたる遺跡発掘調査とそれにともなう層位学的研究の結果、同一地域に幾層も重なって宮が営まれたことが判明した。すなわち、最上層が飛鳥浄御原宮と後飛鳥岡本宮、その下層が中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺した舞台となった飛鳥板蓋宮、最下層が舒明天皇の前飛鳥岡本宮であったとみられる。これまでの調査で、構造が比較的分かっているのは飛鳥浄御原宮である。この宮は、後飛鳥岡本宮の内郭に「エビノコ郭」と称される宮殿を加えて完成したとされる。後飛鳥岡本宮は、その周囲を掘立柱の塀によって区画し、南北約197メートル、東西約155メートルの規模を有し、1979年および1980年の調査で、「前殿」とされる東西建物跡と南門の跡が見つかっている。この前殿こそ、朝堂に相当する建物である。検出されたのは東西1堂ずつの2堂のみであった。飛鳥浄御原宮が手狭であったことは確かであるが、空間構成の理念としては、前代および後代の宮との類似性が指摘できる。
※この「飛鳥京跡上層遺構の朝堂」の解説は、「朝堂」の解説の一部です。
「飛鳥京跡上層遺構の朝堂」を含む「朝堂」の記事については、「朝堂」の概要を参照ください。
- 飛鳥京跡上層遺構の朝堂のページへのリンク