中大兄皇子とは? わかりやすく解説

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なかのおおえ‐の‐おうじ〔なかのおほえ‐ワウジ〕【中大兄皇子】

読み方:なかのおおえのおうじ

天智天皇(てんじてんのう)


天智天皇

(中大兄皇子 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/29 17:59 UTC 版)

天智天皇
百人一首画帖」(狩野探幽筆)

在位期間
668年2月20日 - 672年1月7日
天智天皇7年1月3日- 天智天皇10年12月3日
時代 飛鳥時代
先代 斉明天皇
次代 弘文天皇

誕生 626年
崩御 672年1月7日
近江大津宮
陵所 山科陵
漢風諡号 天智天皇
和風諡号 天命開別天皇
別称 葛城皇子、中大兄皇子
父親 舒明天皇
母親 皇極天皇
皇后 倭姫王
夫人 越道君伊羅都売
子女 大田皇女
持統天皇
建皇子
御名部皇女
元明天皇
山辺皇女
明日香皇女
新田部皇女
志貴皇子(春日宮天皇)
弘文天皇
阿閇皇子
阿雅皇女
川島皇子
大江皇女
泉皇女
水主皇女
皇居 近江大津宮
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天智天皇(てんじてんのう / てんぢてんのう、推古天皇34年〈626年〉- 天智天皇10年12月3日672年1月7日〉)は、日本の第38代天皇(在位:天智天皇7年1月3日668年2月20日〉- 天智天皇10年12月3日〈672年1月7日〉、※斉明天皇6年7月24日661年8月24日〉より称制)。

幼名は葛城皇子(かずらぎのおうじ)[1]。皇子時代の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)の名でも知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた称号で、「中大兄」は異母兄古人大兄皇子に次ぐ「2番目の大兄」を意味する[2]

母・皇極天皇皇太子であった時期に中臣鎌足らとともに乙巳の変蘇我入鹿らを殺害し、直後に即位した叔父・孝徳天皇のもとで大化の改新を推進した。皇極天皇が重祚した斉明天皇の治世でも皇太子として漏刻(水時計)の設置などの改革を推進し、自ら即位した後も初の全国的戸籍庚午年籍」を作らせるなど律令国家への足固めを行った。近江令を制定したとされるが、否定説も有力である[3][4]

皇后は異母兄の古人大兄皇子の娘の倭姫王。ただし皇后との間に皇子女はない[5]

跡を継いだ弘文天皇壬申の乱で敗れた後、一時弟・天武天皇の系統に皇位が移るが、孫にあたる光仁天皇の即位以降は現在に至るまで天智天皇の男系子孫によって皇位が継承されている。

また、661年斉明天皇崩御後に即日中大兄皇子が称制したため暦が分かりにくくなっているが、『日本書紀』では越年称元(越年改元とも言う)年代での記述を採用しているため、斉明天皇崩御の翌年(662年)が天智天皇元年に相当する。

生涯

生い立ち

田村皇子(後の舒明天皇)と宝皇女(後の皇極天皇重祚して斉明天皇)の間の長子として生まれる。生年は『日本書紀』舒明13年(641年)10月丙午条に「年十六」とあるため推古34年(626年)と判明する[1]。同母妹に間人皇女、同母弟に大海人皇子(天武天皇)がいる[6]

葛城皇子という名は、乳母の氏族名にもとづく命名と考えられている[7]

父・舒明天皇は舒明13年(641年10月9日に崩御し、『日本書紀』では東宮開宮別皇子(もうけのきみひらかすわけのみこ)、すなわち中大兄皇子が殯宮(しのびごと)を奉ったと記述しているものの、この時点で皇太子の地位にあったとは考えにくい[8]。翌642年に母・宝皇女が即位し皇極天皇となった[9]

大化の改新

蘇我入鹿の首を刎ねる中大兄皇子(乙巳の変)。談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』(江戸時代

皇極2年(643年)に山背大兄王ら上宮王家討滅事件を起こすなど権勢を強めていた蘇我蝦夷入鹿父子に危機感を抱き、その打倒を目指す中臣鎌足は、中大兄皇子に接近を図った[10]。『日本書紀』や「大織冠伝」(『藤氏家伝』)では蹴鞠の会で脱げた皇子の靴を鎌足が拾い捧げたことから関係が始まったとされている[注釈 1][11][12]。また、蘇我氏の別系である蘇我倉山田石川麻呂との関係も強化し、その娘・遠智娘が中大兄皇子に嫁いでいる[13]

皇極4年6月12日645年7月10日)、中大兄皇子らは飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を暗殺しクーデターを決行する。このときは皇極天皇の御前で「三韓表文」を独唱することとなっており、中大兄皇子・中臣鎌足・佐伯連子麻呂葛木稚犬養連網田が武装して潜み、石川麻呂が奉読する中、子麻呂らがおそれて斬りつけられないのを見て取った皇子が飛び出して入鹿を斬りつけた[14]。天皇に無罪を訴える入鹿だったが、皇子は鞍作(入鹿)が天皇家を滅して皇位を傾けようとしていると奏上し、入鹿を斬殺した[14]。皇子は飛鳥寺に入り甘樫丘に邸宅を置く蘇我蝦夷との対決に備え、翌13日に蝦夷は自害するに至り、14日には皇極天皇が譲位を決意した[15]

皇極天皇の譲位後はその弟である軽皇子が即位し孝徳天皇となった。皇位継承候補者はほかに中大兄皇子の異母兄である古人大兄皇子がいたが、出家したため候補から外れたとされ、中大兄皇子も20歳と若年であったため軽皇子の即位となった[16]

孝徳天皇の政権においては、その甥かつ義弟(孝徳天皇の皇后・間人皇女の同母兄)である中大兄皇子は皇太子(ひつぎのみこ)となり、左大臣阿倍内麻呂右大臣・蘇我倉山田石川麻呂、内臣・中臣鎌足とともにその中枢を担った[17]。ただし「皇太子」といっても立太子した訳ではなく、政権中枢の王族筆頭者に過ぎないという見解もある[18]

古人大兄皇子は乙巳の変の直後出家して吉野に隠遁したが、8月に吉備笠臣垂が中大兄皇子に自首したことで、謀叛を企てていたことが発覚する[19][20]。中大兄皇子がその鎮圧にあたるが、謀叛の企てに関与したとされる人物の多くはのちに復権が確認できるため、この事件は古人大兄皇子の抹殺を目的として仕組まれたものだと考えられている[20]。ただし、蘇我蝦夷の妹を母に持つ古人大兄皇子を取り除くことで孝徳天皇の統治を安定させたものとして、中大兄皇子はあくまで実働部隊であるとみて、背後に孝徳天皇の存在を指摘する見解もある[20]

孝徳天皇の即位後、日本最初の元号である大化が定められたとされ、鐘匱の制男女の法も発令された[21]。翌大化2年(646年)、改新の詔が発せられ、その中では部民の廃止、郡司防人駅伝制戸籍班田収受や税制などについて書かれているが、後世手が加えられていることが明らかとなっており、改革の実態については議論が多い[22]。また孝徳朝の政治を主導したのは中大兄皇子や中臣鎌足らと従来みられていたが、近年は孝徳天皇自身が主導して改革が進められたとの見解も有力となっている[23][24]

大化5年(649年)3月、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂に謀叛の疑いが浮上する[25][26]。蘇我倉山田石川麻呂の異母弟・蘇我日向による中大兄皇子を暗殺しようとしているという讒言により、天皇は使者を遣わして真偽を尋ねたが、天皇に直接申し上げたいという返答を繰り返したため、軍隊が彼の邸宅を包囲したところ大和国方面に逃亡し、25日に山田寺で妻子らとともに自害した[23][25][26]。その後に石川麻呂の財物を調査すると重宝には「皇太子の物」と題されており無実であったと判明したため日向は大宰帥として筑紫に転任、傷心により妃・造媛(石川麻呂の娘)も死没したので、中大兄皇子は嘆き悲しむこととなった[23][25][26]

孝徳天皇は大規模な宮都・難波長柄豊碕宮の造営を進め、白雉2年(651年)に居を移したが、中大兄皇子は白雉4年(653年)に飛鳥への還都を主張して母皇極前天皇・妹間人皇后・弟大海人皇子や大量の官人らとともに飛鳥河辺行宮(あすかかわべのかりみや)に行ってしまった[27]。このような政治的対立の中、翌白雉5年(654年)10月に天皇は病死する[28]

斉明天皇重祚

孝徳天皇の崩御により、中大兄皇子の母・皇極前天皇が重祚し斉明天皇となった。同年30歳となっていた中大兄皇子が即位しなかった理由としては、父・舒明天皇が37歳、母・皇極天皇が49歳、叔父・孝徳天皇が50歳で即位しているように、当時はおおむね40歳前後以上の年齢で即位するという通念が存在していた可能性が示されている[29]

孝徳天皇には有間皇子という男子があり、孝徳天皇崩御時はまだ16歳だったとはいえ将来の有力な皇位継承候補者であったが、斉明4年(658年)11月に彼の謀叛が発覚することとなる[30]。10月に斉明天皇は中大兄皇子らを伴い紀伊牟婁温泉に行幸するが、天皇不在の飛鳥で蘇我赤兄が有馬皇子に謀叛を持ちかけ、赤兄は物部朴井連鮪に有馬皇子邸を包囲させ、天皇に急報した[30]。11月9日に有馬皇子は牟婁温泉に護送されて尋問を受けるが、「天と赤兄が知っているでしょうが、私は知らない」と答えて11日に藤白坂で絞殺された[30]。赤兄は娘を中大兄皇子に嫁がせ、その即位後に左大臣に起用される人物であることから、この事件は中大兄皇子の謀略であったと考えられている[30]。これにより中大兄皇子は皇位継承者の地位を揺るぎないものとすることに成功した[30]

漏刻(復元、飛鳥資料館

中大兄皇子時代の斉明6年(660年)に漏刻(ろうこく、水時計のこと)を作り[31]671年(天智天皇10年)には大津宮の新台に置いて鐘鼓を打って時報を開始したとされる。671年での日付(4月25日)に対応するグレゴリオ暦ユリウス暦ではないことに注意)の6月10日時の記念日として知られている[32]

百済660年に滅ぼされると、その遺民による復興運動を救援することを決定し、斉明7年(661年)正月に斉明天皇・中大兄皇子らは西征を開始した[33]3月25日那津(博多)の磐瀬行宮に入り、5月9日朝倉橘宮に移ったが、同地で7月24日に斉明天皇が崩御する[33]

称制・即位

斉明天皇の崩御後も中大兄皇子は即位せず称制を開始した[34][35](即位しなかった理由については後述)。

百済復興支援策として阿曇比羅夫らの軍勢を半島に派遣するとともに、日本にいた百済王子・豊璋に織冠を授けて多臣蒋敷の娘を嫁がせ、帰国させることとした[35]。斉明天皇の殯礼のため畿内に帰還することができたのは10月のことだった[36]。その後も百済支援を継続したものの、天智2年(663年)には鬼室福信が豊璋に殺害されるなど百済復興軍内部での分裂が生じており、同年8月の白村江の戦いで倭・百済連合軍は大敗することとなった[37]

戦後は豊璋の弟・善光ら亡命百済人の受け入れを行うとともに、唐の鎮将・劉仁願から使者として遣わされた郭務悰の対応を中臣鎌足に行わせている[38]。また北九州の防備を固めるために防人(とぶひ)を配置するとともに大宰府防衛のため水城大野城基肄城を築かせた[39]。また天智4年(665年)に唐本国の使者・劉徳高も来朝したことは緊張をさらに高めることとなり、対馬から北九州・瀬戸内海を経て畿内に至る一帯に古代山城を築造して防衛網を整備した[40]

国内政策では天智3年(664年)正月に弟の大海人皇子に甲子の宣を発出させ、冠位二十六階氏上民部・家民について定めた[41][42]

近江大津宮跡 内裏正殿跡

天智6年(667年)3月、近江大津宮(現在の大津市)へ遷都[43]。また『扶桑略記』などによれば崇福寺を建立したとされる[44]

天智7年1月3日668年2月20日)、ようやく即位に至る[5]

同年高句麗が滅亡し、白村江の戦い以降初となる新羅使が来朝[45]。また翌天智8年(669年)に河内直鯨遣唐使として派遣[46]

同年10月、中臣鎌足が病臥するとその邸に行幸して見舞い、鎌足が亡くなる前日の15日に大織冠内大臣の位、さらに藤原の姓を与えた[47]

天智9年(670年)2月には初の全国的戸籍である庚午年籍の作成を命じる[48]

天智10年(671年)正月に太政大臣大友皇子、左大臣・蘇我臣赤兄、右大臣・中臣連金御史大夫大納言)・蘇我臣果安巨勢臣人紀臣大人という太政官制人事を定めた[49][50]

崩御とその後

天智10年(671年)天皇は病臥し、10月に弟の大海人皇子を病床に呼んで後事を託そうとしたが、大海人皇子は皇位を辞退して大友皇子を立てるように言って出家し、吉野へ出発した[51]。『日本書紀』には大海人皇子を皇太弟として記述する部分があるが、冊立は確認できず、編者による文飾と考えられる[52]。『懐風藻』にはこの前年に大友皇子が皇太子となったとの記述があるが、森田悌は大海人皇子の出家隠棲に伴い皇太子として立てたと解している[53]

同年12月3日672年1月7日)、天智天皇は近江大津宮で崩御した[54]。(『政事要略』『扶桑略記』には天智天皇は山中で行方不明になったと記されているが、史実とは考えがたい[55][54]。これらには四国の山中での崩御説や天武天皇側による暗殺説などがある)[56][注釈 2]。宝算46。

天智天皇は大友皇子の側近として蘇我赤兄・中臣金蘇我果安巨勢比等紀大人を選んでいるが、これは息子かつ次期天皇候補の側近の数としてはかなり少ない[57]。これは、乙巳の変以来、中臣鎌足と少数のブレインのみを集めた「専制的権力核」を駆使して2人による専制支配を続けた結果、大友皇子の勢力基盤として頼みにすることができる藩屏が激減してしまったからである[57]

天武元年(672年6月26日には、大友皇子が群臣に方針を諮ったとあるが、近江朝廷の構成から考えて、その相手は左右の大臣と3人の御史大夫のみであり、その時には既に大化前代以来のマヘツキミ合議体はその機能を完全に喪失していたと見られる[57]

天智天皇は、大友皇子に皇位を継がせたかったとされる(『日本書紀』)。しかし、天智天皇の崩御後に起きた壬申の乱において大海人皇子が大友皇子に勝って即位して天武天皇として即位する。以降、天武系統の天皇が称徳天皇まで続く[注釈 3]

称徳天皇崩御後に、天智天皇の孫の白壁王(志貴皇子の子)が即位して光仁天皇が誕生した[58]。以降は天智系統が続く。

年譜

『古今偉傑全身肖像』(1899年ごろ)

※年は西暦、月日は和暦による。

系譜

天皇系図 38~50代

弟・天武天皇の后妃として『日本書紀』に見える額田王は天智天皇の后妃としては記録されていないが、『万葉集』の歌から兄弟での額田王をめぐる確執があったのではないかと言われることがある[59]

他にも藤原不比等は天智天皇の落胤という説が『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などに見られる。

即位に関する諸説

中大兄皇子が長く即位しなかったことは、7世紀中葉の政治史における謎の一つである。これに関する説がいくつか存在する。

  1. 白村江敗戦後の防備体制構築などの政策推進のために、天皇よりも自由な皇太子という立場で政治を執り行ったという説[60]。 - この時期皇太子という地位は確立されたものではなく、即位して天皇として政治を行う方が確実であるという批判がある[60]
  2. 中大兄皇子の妹かつ孝徳天皇の皇后であった間人皇女の存在が即位の障害となったという説。 - 天智4年(665年)2月の間人皇女死去、同6年(667年)2月の斉明天皇陵への合葬を経て翌7年(668年)正月に即位するに至ることを根拠とする[60]。ただ間人皇女の没後も称制が継続することを不審とみる見解もある[60]
    • 間人皇女が即位していたという説。 - 『万葉集』の「中皇命」、『大安寺伽藍縁起幷流記資財帳』の「仲天皇」、野中寺弥勒像台座銘の「天皇」を間人皇女と解する[61]。ただし時代の近い『日本書紀』に即位の記述が全くないのは不自然とも指摘されている[61]
    • 間人皇女と中大兄皇子が男女の関係にあったことが障害となったという説。 - 吉永登は、白雉4年(653年)の中大兄皇子らの飛鳥還都事件に際して孝徳天皇が皇后に「鉗(かなき)着け 吾が飼ふ駒は 引出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか」という歌を送っていることと、「見る」には男女が関係を結ぶという意味で用いられる例もあることから、間人皇女と中大兄皇子は不倫関係にあり、同母兄妹婚姻の禁忌[注釈 5]を犯したために即位できなかったという説を提唱した[62][63]。ただしこの歌以外の根拠に欠くとされる[63]
  3. 乙巳の変や古人大兄皇子殺害などの中大兄皇子の血塗られた経歴が妨げとなったという説[60]。 - 天智7年の段階でもそのような過去を払拭できるほど状況は変化していなかったという批判がある[60]
  4. 二段階即位説。 - 斉明天皇崩御時に中大兄皇子は「治天下(大)王(あめのしたしろしめすおおきみ)」として即位した上で、王権強化後の天智7年に「治天下天皇(すめらみこと)」として即位したという見解[64]
  5. 後継者とすることを考えていた大友皇子の成長を待っていたという説。 - 即位と同時に後継者を確定させる必要はなく、また後継者決定には早く即位した方が有利であるとの批判がある[65]
  6. 倭姫王の立后を待った。 - 当時の皇后は王族であることが必須条件とされており[注釈 6]、該当者としては中大兄皇子の姪である倭姫王が存在したが、父・古人大兄皇子の没年(645年)の生まれだと斉明7年(661年)時点で16歳となり婚姻適齢には早いため、その成長と立后を待つ必要があったのではないかという森公章による見解[66]
  7. 天武天皇を推す勢力への配慮。すなわち、従来定説とされてきた、天武天皇は天智天皇の弟であるというのは誤りで、皇極天皇が舒明天皇と結婚する前に生んだ漢皇子であり、彼は天智天皇の異父兄であるとする説に基づくものである。確かに、『日本書紀』の天智天皇と一部の歴史書に掲載される天武天皇の宝算をもとに生年を逆算すれば、天武が年長となってしまう。しかし、同一史料間には矛盾は見られず、8 - 9歳程度の年齢差を設けている史料が多い。これに対しては「『父親が違うとはいえ、兄を差し置いて弟が』ということでは体裁が悪いので、意図的に天智の年齢を引き上げたのだ」との主張があるが、「『日本書紀』に見える、天智の年齢16歳は父の舒明天皇が即位した時の年齢だったのを間違えて崩御した時の年齢にしてしまった。だから、本当の生年は『本朝皇胤紹運録』などが採用している614年だ」との反論、「古代においては珍しくなかった空位(実際、天武の前後に在位していた天智・持統も称制をしき、ただちに即位しなかった)のために誤差が生じたのだ」との反論、また『日本書紀』と指摘されているその他歴史書は編纂された時代も性質も異なるため、同一には扱えないとの意見もある(「天武天皇#出生」の項も参照)[要出典]
  8. 天智は元々有力な皇位継承者ではなかったために、皇太子を長く務めることでその正当性を内外に認知させようとした説。舒明の后には敏達推古両天皇の皇女である田眼皇女がいるにもかかわらず、敏達の曾孫に過ぎない皇極が皇后とされている点を問題とするもので、『日本書紀』の皇極を皇后とする記事を後世の顕彰記事と考え、天智は皇族を母とするとしても皇極の出自では有力な継承者になりえず、皇極の在位も短期間でその優位性を確立出来なかったために、乙巳の変後にもただちに即位せず皇族の長老である孝徳を押し立てて、自らは皇太子として内外に皇位継承の正当性を認知させる期間を要したとする説[要出典]
  9. 乙巳の変の意義を、蘇我大臣家のみならず同家に支えられた実母・皇極天皇率いる体制打倒にあったとする観点から、孝徳天皇との対立→崩御の後に自らの皇位継承の正統性を確保するため、皇極天皇の重祚という、乙巳の変の否認とも取られかねない行為を行ったことで群臣たちの信用を失った中大兄が、信頼を回復するまでに相当の期間を必要としたとする説[要出典]
  10. 中村修也は、『天智朝と東アジア』において、天智・天武の兄にあたる人物が、斉明天皇崩御直後に即位したが、白村江の戦いで捕虜となり、その後数年間生死不明であったため、天智は即位を控えたとする説を提起している。紀記においてこの兄は意図的に記述を抹消された可能性がある。

天智と蘇我氏

天智は、皇極4年(645年)の乙巳の変蘇我蝦夷蘇我入鹿を、大化元年(645年)9月に蘇我田口川堀を、大化5年(649年)3月に蘇我倉山田石川麻呂を政治的に、あるいは物理的に抹殺しているが、蘇我入鹿抹殺の際には蘇我倉山田石川麻呂を、蘇我倉山田石川麻呂抹殺の際には蘇我日向を、有間皇子抹殺の際には蘇我赤兄を頼り、大化2年(646年)に東国に派遣する国司として蘇我氏同族を6人も任命し、晩年には大友皇子の補佐役として蘇我赤兄(左大臣)と蘇我果安御史大夫)を選び、自身や親族の后妃に蘇我氏の女性を選んでいるように、自身の勢力の地盤として、大化以前からの伝統的な雄族であった蘇我氏の権力に頼らざるを得なかった[57]。それにもかかわらず、蘇我安麻呂によって大海人皇子を逃してしまっていることから、蘇我氏全体を権力に組み込むことはできなかったことがわかる[57]

在位中の重臣一覧

年月日(旧暦) 太政大臣 左大臣 右大臣 内臣 内大臣 御史大夫
661年8月24日(斉明天皇7年7月24日) 中臣鎌足
662年(天智天皇元年)1月 蘇我連子 中臣鎌足
664年(天智天皇3年)3月 中臣鎌足
669年11月13日(天智天皇8年10月15日) 藤原鎌足
669年11月14日(天智天皇8年10月16日)
671年2月19日(天智天皇10年正月5日) 大友皇子 蘇我赤兄 中臣金 蘇我果安 巨勢人 紀大人

系図

天智天皇の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 第29代 欽明天皇(=20,28)
 
 
 
 
 
 
 
8. 第30代 敏達天皇(=10,24)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 石姫皇女(=21)
 
 
 
 
 
 
 
4. 押坂彦人大兄皇子(=12)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 息長真手王
 
 
 
 
 
 
 
9. 広姫(=25)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2. 第34代 舒明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 第29代 欽明天皇(=16,28)
 
 
 
 
 
 
 
10. 第30代 敏達天皇(=8,24)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. 石姫皇女(=17)
 
 
 
 
 
 
 
5. 糠手姫皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
11. 伊勢大鹿首小熊女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 第38代 天智天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 第30代 敏達天皇(=8,10)
 
 
 
 
 
 
 
12. 押坂彦人大兄皇子(=4)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. 広姫(=9)
 
 
 
 
 
 
 
6. 茅渟王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
13. 大俣王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 第35代 皇極天皇・
第37代 斉明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. 第29代 欽明天皇(=16,20)
 
 
 
 
 
 
 
14. 桜井皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29. 蘇我堅塩媛
 
 
 
 
 
 
 
7. 吉備姫王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
27 安閑天皇
 
28 宣化天皇
 
29 欽明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石姫皇女
(欽明天皇后)
 
上殖葉皇子
 
30 敏達天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
31 用明天皇
 
33 推古天皇
 
32 崇峻天皇
 
穴穂部間人皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大河内稚子媛
(宣化天皇后)
 
十市王
 
押坂彦人大兄皇子
 
春日皇子
 
大派皇子
 
難波皇子
 
聖徳太子
(厩戸皇子)
 
来目皇子
 
当麻皇子
 
殖栗皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
火焔皇子
 
多治比古王
 
 
 
 
 
 
茅渟王
 
 
 
 
 
栗隈王
 
山背大兄王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
多治比嶋
多治比氏
 
 
 
 
 
 
35 皇極天皇
37 斉明天皇
 
36 孝徳天皇
 
美努王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
有間皇子
 
橘諸兄
(葛城王)
橘氏


 
 
 
 
34 舒明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
古人大兄皇子
 
38 天智天皇
(中大兄皇子)
 
間人皇女(孝徳天皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
40 天武天皇
(大海人皇子)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
倭姫王
(天智天皇后)
 
41 持統天皇
(天武天皇后)
 
43 元明天皇
(草壁皇子妃)
 
39 弘文天皇
(大友皇子)
 
志貴皇子
 
 
 
 
 
高市皇子
 
草壁皇子
 
大津皇子
 
忍壁皇子
 
 
 
 
 
長皇子
 
 
 
 
 
舎人親王
 
 
 
 
 
新田部親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
葛野王
 
49 光仁天皇
 
 
 
 
 
長屋王
 
44 元正天皇
 
42 文武天皇
 
吉備内親王
(長屋王妃)
 
 
 
 
 
文室浄三
(智努王)
 
三原王
 
47 淳仁天皇
 
貞代王
 
塩焼王
 
道祖王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
池辺王
 
50 桓武天皇
 
早良親王
(崇道天皇)
 
桑田王
 
 
 
 
 
45 聖武天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三諸大原
 
小倉王
 
 
 
 
 
清原有雄
清原氏
 
氷上川継
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
淡海三船
〔淡海氏〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
礒部王
 
 
 
 
 
46 孝謙天皇
48 称徳天皇
 
井上内親王
(光仁天皇后)
 
 
 
 
 
 
文室綿麻呂
文室氏
 
清原夏野
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石見王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高階峯緒
高階氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

諡号

和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。漢風諡号である天智天皇は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代淡海三船が撰進した。森鴎外は『帝諡考』において、その典拠に『逸周書』世俘解、『淮南子』主術訓、『韓非子』解老篇を候補に挙げている。

陵・霊廟

天智天皇陵(京都市山科区)

(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市山科区御陵上御廟野町にある山科陵(やましなのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は上円下方八角)。遺跡名は「御廟野古墳」。

考古学的にもこの治定は正しいとされている[67]

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。崩御の天智天皇10年12月3日はグレゴリオ暦672年1月10日に相当するので、1月10日に御陵で正辰祭が行われる(1月7日はユリウス暦)。

百人一首(天智天皇の読み札)

万葉集に4首の歌が伝わる万葉歌人でもある。百人一首でも平安王朝の太祖として敬意が払われ、冒頭に以下の歌が載せられている。

  • 秋の田の かりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ[注釈 7]
    「屋根を葺いている苫が粗いので、私の袖は夜露にしっとり濡れてしまった」農民のことを思って読んだ歌百人一首の最初の歌。

万葉集の以下の句は大和三山を詠んだ歌といわれているが、原文は香具山でなく高山であり、大和天香久山ではない、畝火や耳梨は山ではないなど多くの異論がある[要出典]

  • 香具山は畝火雄々(を愛)しと耳梨と相争ひき神代よりかくなるらし古へもしかなれこそうつせみも嬬(妻)を争ふらしき
    原文「高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉」

遣新羅使

  • 668年(天智天皇7年) 新羅文武王の代に使節を送った
  • 670年(天智天皇9年) 新羅の文武王の代に使節を送った

在位年と西暦との対照表

脚注

注釈

  1. ^ 蹴鞠の場を通じた出会いという逸話は、新羅の金春秋(武烈王)と金庾信の妹の結婚の話が『三国史記』『三国遺事』に見える[11][12]
  2. ^ 扶桑略記』では病死説の後一説として「一云 天皇駕馬 幸山階鄕 更無還御 永交山林 不知崩所 只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害」とあり山中で行方不明になったとされている。これには四国の山中で崩御した説があり、愛媛県の大生院郷土誌では「天智天皇が京都をお立ちになった後、ひそかに当国へ行幸なされたが、この地に崩御あそばされ、おそれおおくも御陵地とせられた所で、後世の人が神社としたものである。」と記されている。この他にも天武天皇側による暗殺説もあり、「日本書紀は天武天皇側が編纂したものなので自分たちに都合の悪いことは書かない」と扶桑略記の信憑性は高いとの見解もある。
  3. ^ ただし天武天皇・淳仁天皇以外の天皇は持統天皇元明天皇を介して天智天皇の血を引いてはいる。
  4. ^ 森公章は古人大兄皇子のほかに、蚊屋皇子も生母が采女という身分の低い女性であったことから中大兄皇子よりも年長と解している[6]
  5. ^ 古代日本において異母兄妹の婚姻の例は多いが、木梨軽皇子軽大娘皇女のように同母兄妹の婚姻は許されなかったとされている。
  6. ^ 中大兄皇子の父・舒明天皇は宝皇女(皇極・斉明天皇)を皇后としているが、宝皇女は再婚である。
  7. ^ よく似た「秋田刈る仮庵を作りわが居れば衣手寒く露そ置きにける」というのが万葉集に詠み人知らずと収められている。内容から農民が詠んだ歌で、その辛さを思いやる慈悲深い天皇の心を示す歌として語り継がれるようになった[68]

出典

  1. ^ a b 森 2016, pp. 1–2.
  2. ^ 森森 2016, pp. 16–17.
  3. ^ 森田 2009, pp. 220–221.
  4. ^ 森 2016, pp. 228–231.
  5. ^ a b 森 2016, p. 209.
  6. ^ a b 森 2016, pp. 17–18.
  7. ^ 森 2016, p. 15.
  8. ^ 森 2016, pp. 29–30.
  9. ^ 森 2016, pp. 30–31.
  10. ^ 森 2016, pp. 38–45.
  11. ^ a b 森田 2009, pp. 39–41.
  12. ^ a b 森 2016, pp. 45–46.
  13. ^ 森 2016, pp. 47–48.
  14. ^ a b 森 2016, pp. 52–55.
  15. ^ 森 2016, pp. 55–57.
  16. ^ 森 2016, pp. 56–57.
  17. ^ 森 2016, pp. 57–58.
  18. ^ 森 2016, p. 59.
  19. ^ 森田 2009, pp. 105–107.
  20. ^ a b c 森 2016, pp. 63–65.
  21. ^ 森 2016, pp. 65–77.
  22. ^ 森 2016, pp. 77–89.
  23. ^ a b c 門脇禎二「いわゆる、大臣蘇我倉山田石川臣麻呂滅亡事件について」『「大化改新」史論』 下巻、思文閣出版、1991年9月10日、119-142頁。doi:10.11501/13206676ISBN 4-7842-0652-3 (要登録)
  24. ^ 森 2016, p. 8.
  25. ^ a b c 森田 2009, pp. 109–111.
  26. ^ a b c 森 2016, pp. 109–112.
  27. ^ 森 2016, pp. 128–133.
  28. ^ 森 2016, p. 135.
  29. ^ 森 2016, pp. 136–137.
  30. ^ a b c d e 森 2016, pp. 150–154.
  31. ^ 森 2016, pp. 144–145.
  32. ^ 漏刻について”. 近江神宮時計館宝物館. 2018年8月19日閲覧。
  33. ^ a b 森 2016, pp. 157–163.
  34. ^ 森田 2009, pp. 202–203.
  35. ^ a b 森 2016, pp. 164–165.
  36. ^ 森 2016, p. 167.
  37. ^ 森 2016, pp. 168–173.
  38. ^ 森 2016, pp. 174–175.
  39. ^ 森 2016, pp. 176–178.
  40. ^ 森 2016, pp. 178–181.
  41. ^ 森田 2009, pp. 203–204.
  42. ^ 森 2016, pp. 182–187.
  43. ^ 森 2016, p. 199.
  44. ^ 森 2016, pp. 202–204.
  45. ^ 森 2016, pp. 219–221.
  46. ^ 森 2016, pp. 223–224.
  47. ^ 森 2016, pp. 225–227.
  48. ^ 森 2016, pp. 231–235.
  49. ^ 森田 2009, pp. 225–226.
  50. ^ 森 2016, pp. 225–226.
  51. ^ 森 2016, pp. 243–247.
  52. ^ 森田 2009, p. 244.
  53. ^ 森田 2009, pp. 248–251.
  54. ^ a b 森 2016, p. 248.
  55. ^ 森田 2009, pp. 265–266.
  56. ^ 高島正人『藤原不比等』吉川弘文館〈人物叢書〉、1997年、62頁。 
  57. ^ a b c d e 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社 2015年)[要ページ番号]
  58. ^ 森田 2009, pp. 271–272.
  59. ^ 森 2016, pp. 214–218.
  60. ^ a b c d e f 森 2016, pp. 188–189.
  61. ^ a b 森 2016, pp. 192–196.
  62. ^ 吉永登「間人皇女―天智天皇の即位をはばむもの―」『万葉―文学と歴史のあいだ』創元社〈創元学術双書〉、1967年2月10日、3-22頁。doi:10.11501/1348227 (要登録)
  63. ^ a b 森 2016, pp. 191–192.
  64. ^ 森 2016, pp. 189–190.
  65. ^ 森 2016, pp. 190–191.
  66. ^ 森 2016, pp. 209–211.
  67. ^ 森 2016, p. 250.
  68. ^ 田辺聖子『田辺聖子の古典まんだら』 上、新潮社〈新潮文庫〉、2013年、65頁。 

参考文献

関連作品

関連項目

外部リンク


中大兄皇子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 09:43 UTC 版)

道後温泉」の記事における「中大兄皇子」の解説

白村江の戦い前に中大兄皇子(後の天智天皇)が日本百済連合軍集結させた。

※この「中大兄皇子」の解説は、「道後温泉」の解説の一部です。
「中大兄皇子」を含む「道後温泉」の記事については、「道後温泉」の概要を参照ください。

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