おおとも‐の‐おうじ〔おほとも‐ワウジ〕【大友皇子】
読み方:おおとものおうじ
⇒弘文天皇
大友皇子
弘文天皇
父天智天皇崩御後に壬申の乱が起き、大海人皇子(天武天皇)の吉野側が勝利したため、その即位を認められなかった(舎人親王が編纂した「日本書紀」は、弘文天皇の記事を載せず、一代として扱っていない)が、明治3年に至り弘文天皇と追号された。
従って諱がない。
皇妃には大海人皇子と額田王の間に生まれた十市皇女として天智天皇の崩御後に近江にあって政務をみたとされている。
天智天皇の崩御後、大海人皇子は草壁皇子、鵜野讃良皇女、高市皇子、大津皇子らと吉野を脱出して大友皇子(弘文天皇)の近江朝廷側と対立した。
この対立は、大海人皇子の吉野側が大友皇子(弘文天皇)の近江側を破り、大友皇子が自害するに及んで吉野側の勝利に終わった(「壬申の乱」という。
この乱の評価は諸説ある。
)。
第39代天皇 | |
天皇名 | 弘文天皇 |
読み方 | こうぶんてんのう |
名・諱等 | 大友皇子 |
読み方 | おおとものおうじ(みこ) |
時代区分 | 古代 |
天皇在位 | 671年から672年 |
生年 | 648 |
没年 | 672 |
父 | 天智天皇 |
母 | 伊賀宅子娘 |
兄弟 | □□□ |
配偶者 | 十市皇女 |
皇子女 | 葛野王・与多王 |
即位宮 | 近江大津宮 |
天皇陵 | 長等山前陵 |
所在地 | 滋賀県大津市御陵町 |
弘文天皇
(大友皇子 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/15 11:17 UTC 版)
弘文天皇(こうぶんてんのう、旧字体: 弘文󠄁天皇、648年〈大化4年〉- 672年8月21日〈天武天皇元年7月23日〉[1])は、日本の第39代天皇(在位:672年1月9日〈天智天皇10年12月5日〉- 672年8月21日〈天武天皇元年7月23日〉)。
注釈
出典
- ^ 『弘文天皇』 - コトバンク
- ^ 告井幸男「名代について」『史窓』第071巻、京都女子大学史学会、2014年、1-21頁、hdl:11173/1496、ISSN 0386-8931、NAID 120005407781。
- ^ 紀元二千六百年記念房総叢書刊行会 編国立国会図書館デジタルコレクション 『房総叢書 : 紀元二千六百年記念. 第6卷 地誌其一』紀元二千六百年記念房総叢書刊行会、1941年 。
- ^ 宮間 2018, p. 27-28.
- ^ 宮間 2018, p. 23-24.
- ^ “白山神社古墳(房総の古墳を歩く/君津市久留里の古墳)”. 芝山町立芝山古墳・はにわ博物館. 2019年2月6日閲覧。
- ^ “白山神社古墳(君津市の国・県指定および国登録文化財)”. 千葉県庁 (2017年5月12日). 2019年2月6日閲覧。
- ^ 宮間 2018, p. 21.
- ^ 宮間 2018, p. 59-80.
- ^ a b 石川 1981, p. 174.
- ^ 石川 1981, p. 175.
- ^ 石川 1981, p. 203.
- ^ 宮間 2018, p. 19.
- 1 弘文天皇とは
- 2 弘文天皇の概要
- 3 在位中の重臣一覧
- 4 詩歌
大友皇子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 01:07 UTC 版)
「天智と天武-新説・日本書紀-」の記事における「大友皇子」の解説
中大兄皇子の息子。祖母の皇極天皇の死に、父が関わっていることを察するなど聡明な人物で、密かに大海人皇子を慕っていたが、天智天皇の死後は大海人皇子を仇敵として戦わねばならない立場に追いつめられる(壬申の乱)。
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