『続日本紀』の「内大臣より君十帝」
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「大友皇子即位説」の記事における「『続日本紀』の「内大臣より君十帝」」の解説
奈良時代に書かれた『続日本紀』には、天平宝字2年(758年)に淳仁天皇が藤原仲麻呂に恵美押勝の名を与えたときに、藤原氏の功績を称えて「近江大津宮の内大臣より(中略)君十帝をへて年ほとんど一百」と勅で述べたことが記されている。 この「内大臣」は藤原鎌足のことで、近江大津宮は天智天皇が定めた都であるから、天智天皇からたどることにすると、天智天皇、天武天皇、持統天皇、文武天皇、元明天皇、元正天皇、聖武天皇、孝謙天皇、淳仁の9人にしかならない。弘文天皇を代数に入れるとちょうど10人になる。これに対しては、草壁皇子をあてれば10人になるという反論がある。
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