『続武家閑談』の記載とは? わかりやすく解説

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『続武家閑談』の記載

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 17:40 UTC 版)

渡辺守」の記事における「『続武家閑談』の記載」の解説

木村高敦によって18世紀前半編纂された『続武家閑談十八では、守の大坂落城後動き甲府徳川家への仕官経緯について、以下のように伝える。 守は糺の長男で、大坂落城時には6歳であった落城の際、糺は二男三男刺殺し、長男連れてくるように乳母申し付けたが、乳母白小袖着せてくるからと言ってその場逃れ渋紙包んで綱から下げてから降ろし乳母命からがら脱出した乳母町屋便所に守を隠してほとぼり冷めるのを待っていたが、残党狩りを行う徳川方によって捕縛された。乳母拷問受けたものの「渡辺家中の水谷清兵衛という者の妻と子である」と主張し、守も打擲受けたがついに糺の子であると自白しなかった。徳川方は金1両を出すならば軽輩の者の子として見逃すと言い出したために、乳母は「渡辺の郷」に行って百姓たちに頼ったところ、百姓たちも渡辺家代々の恩と乳母忠義心に感じて金子調達し、守は解放された。その後、守は京都潜伏し南禅寺出家した18歳のとき、親戚筋(「一門」)に当たる「細川越州」(細川忠興)や「一柳土州」が働きかけ還俗し素心尼(祖心尼)の伝手頼って徳川綱重への仕官働きかけた。仕官実現には数年要したが、武名の高い渡辺糺の子であるから500石を与えられ、「軽卒の頭」として「長くかの御家仕えた」という。

※この「『続武家閑談』の記載」の解説は、「渡辺守」の解説の一部です。
「『続武家閑談』の記載」を含む「渡辺守」の記事については、「渡辺守」の概要を参照ください。

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