『続日本紀』巻二二・淳仁天皇・天平宝字三年正月の渤海王の自称「高麗国王」論争
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「渤海 (国)」の記事における「『続日本紀』巻二二・淳仁天皇・天平宝字三年正月の渤海王の自称「高麗国王」論争」の解説
日本史料『続日本紀』『類聚国史』には、日本と渤海の外交交渉において日本が渤海を「高麗」と呼び、大欽茂が「高麗国王」と自称するなど高句麗継承意識を表明していることが記載されている。 1 庚午。帝臨軒。高麗使楊承慶等貢方物。奏曰。高麗國王大欽茂言。承聞。在於日本照臨八方聖明皇帝。登遐天宮。攀號感慕。不能黙止。是以。差輔國將軍楊承慶。歸徳將軍楊泰師等。令齎表文并常貢物入朝。 — 続日本紀、巻二二 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。續日本紀/卷第廿二 2 武藝忝當列國濫惣諸蕃、復高麗之舊居、有扶餘之遺俗。但以天涯路阻、海漢悠悠、音耗未通、吉凶絶問、親仁結援。庶叶前經、通使聘隣、始乎今日。武藝、忝なくも列国に当り、濫りに諸蕃を統べ、高麗の旧居に復して扶余の遺俗を有てり。但だ天崖路阻たり、海漢(漠か)悠々たるを以て、音耗未だ通ぜず、吉凶問を絶つ。仁に親しみ援を結ぶこと、庶くは前経に叶ひ、使を通じ隣に聘すること、今日に始めん。 — 続日本紀、神亀五年正月甲寅条 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。續日本紀/卷第十 3 書尾虚陳天孫僭号。 — 続日本紀、巻三二 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。續日本紀/卷第卅二 4 慕化之勤、可尋蹤於高氏。 — 類聚国史、巻一九三 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。日本後紀/卷第七 このうち4は桓武天皇が以下の渤海王宛の勅書で、古の高句麗みたく朝貢形式の臣礼を要求したことを承諾して大嵩璘が述べたものであり、日本の意向に添ってでも交易を円滑に進めたい意思がうかがえ、1、2、3の高句麗継承意識とは異なり、日本に追従・恭順する意思を表明したものとなる(高氏は高句麗王姓、大家は渤海王室)。 彼渤海之国、隔以滄溟、世脩聘礼、有自来矣。高氏継緒、毎慕化而相尋、大家復基、亦占風而靡絶。彼の渤海の国、隔つるに滄溟を以てするも、世よ聘礼を脩め、自来せる有り。往者、高氏緒を継ぎ、毎に化を慕いて相い尋ぎ、大家基を復するや、亦た風を占いて絶ゆる靡し。 — 類聚国史、巻一九三 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。日本後紀/卷第七 これを以て渤海が高句麗継承国を強く自任していた証拠とする場合が往々見受けられ、特に韓国や北朝鮮の研究者はこの日本史料にある日本が渤海を「高麗」と呼び、渤海王が「高麗国王」と自称していたことこそが渤海王が高句麗人だった、渤海が高句麗の継承国だった最大の証拠だと主張している。また、朴時亨は、大欽茂が日本に送った国書で自らを「天孫」と自称しており、高朱蒙は天帝の息子であるため、天孫とは高句麗王家のことであり、渤海王が「天孫」を自称したことは、渤海王が高句麗王家の血統であること意味し、渤海は高句麗人が建国した高句麗継承国であることの証明であると主張している。 Daum百科事典は以下の主張をしている。 건국 초기에는 스스로 진국(震國)이라 칭했으며 일본과의 사절교환시에는 고구려의 계승을 강조하며 '고려'(高麗)로 칭하기도 했다.建国初期は、自ら震國と称し、日本との外交使節交換時には、高句麗の継承を強調し「高麗」と称した。 — Daum百科事典 Chunjae Education. INC.(朝鮮語版)は以下の主張をしている。 그 당시 일본과 오고 간 문서를 보면 정확히 알 수 있어. 분명 고려(고구려)의 후예라고 자처하는 내용이 있고, 일본도 인정을 했지当時の日本との外交文書を見れば正確に知ることができる。明らかに高句麗の後裔を自認する内容があり、日本もそれを認めていた。 — 천재학습백과 초등 사회 5-2 斗山世界大百科事典は以下の主張をしている。 제3대 문왕은 일본에 보낸 국서에서 스스로를 ‘고구려(高句麗) 국왕’이라고 칭하였다. 이와 같이 발해국은 고구려 계통임을 분명히 밝혔다.第三代の文王は日本に送った国書で自らを高句麗国王と称した。このように渤海は自らを高句麗系であると明らかにした。 — 斗山世界大百科事典 『韓国民族文化大百科事典』は以下の主張をしている。 그리고 문왕(文王)시대에는 일본과의 외교에서 고구려의 천손의식(天孫意識)을 원용해 천손이란 용어를 사용했고, 그의 후반기에는 고구려 계승국이라는 의미로서 고려국(高麗國)을 표방하기도 하였다.강왕(康王)시대에도 일본에 보낸 국서(國書)에 고구려 계승의식이 집중적으로 나타나 있다. 강왕 스스로 국서에서 이러한 의식을 표명한 것은 발해 지배층의 인식을 밝히고 있는 것이어서 주목된다.한편 872년에 일본에서 고구려 계통의 사람을 내세워 발해 사신을 접대했던 사실을 볼 때 고구려 계승의식이 지속되었음을 분명히 알 수 있다. 따라서 발해사의 고구려 계승성은 자명하다고 할 수 있다.文王時代には、日本との外交で高句麗の天孫意識を援用して天孫という用語を使用しており、文王後期には、高句麗継承国という意味で高麗国を標榜した。康王時代にも日本に送った国書に高句麗継承意識が集中的にあらわれている。康王の国書において、これらの意識を表明したのは、渤海の支配層の認識を明らかにしたものであり、注目される。一方、872年に日本が高句麗系の人を渤海使臣の応対をさせたという事実をみたときに、高句麗継承意識が持続していたことが明確にわかる。したがって渤海の高句麗継承性は自明であるということができる。 — 한국민족문화대백과사전、남북국시대(南北國時代) EBSi(朝鮮語版)の歴史講師である이다지は以下の主張をしている。 아쉽게도 발해가 자국의 역사서를 편찬하진 않았지만 당시 다른 나라와 교류했던 외교 문서는 남아 있습니다. 좀 있다 보겠지만 발해가 일본이랑 친했거든요. 일본에 보낸 국서를 보면 발해왕이 스스로를 ‘고려 국왕’이라고 합니다.残念ながら渤海は自国の歴史書を編纂していないが、当時の他国との交流において外交文書は残っている。渤海は日本と親交した。日本に送った国書を見ると、渤海王が自らを高麗国王といっている。 — 이다지 한국사 1 - 전근대 : 흥미진진 스토리텔링으로 한국사 다지기 卞麟錫(朝鮮語: 변인석、英語: Pyun, In-seok、亜洲大学)は以下のように述べている。 천제(天帝)의 아들 해모수(解慕潄)가 도읍을 정한 건국신화에서 발해의 천손 즉 천제의 아들이라는 선택된 긍지와 같은 뿌리를 엿보게 한다. 고구려의 시조 주몽의 아버지 해모수가 나라를 세운 건국과정은 『삼국사기』에 자세하다....이 같이 고구려 왕실을 낳은 천손사상의 표명은 772년(대흥(大興) 34) 발해의 대문왕이 일본 왕에게 보낸 국서에서 ‘천제의 아들’이라고 밝힌 데에서 알 수 있다.天帝の息子解慕漱が都を定めた建国神話を、渤海が天孫すなわち天帝の息子として選択したのは誇りをうかがわせる。高句麗の始祖朱蒙の父解慕漱が国を建国した過程は『三国史記』に詳しい。...このような高句麗王家を産んだ天孫思想の表明は、772年、渤海の文王が天皇に送った国書で「天帝の息子」と明らかにしたことから知ることができる。 — 변인석、天孫의 표명 卞麟錫(朝鮮語: 변인석、英語: Pyun, In-seok、亜洲大学)は以下のように述べている。 다행히 무왕과 문왕이 일본에 보낸 국서가 『속일본기』에 실려 있다. 국서(國書)에서 고구려 계승의 흔적을 찾아낼 수 있다. 하나는 728년(開元 16) 발해의 무왕, 대무예가 고구려의 옛 땅을 회복하고 또 부여의 유속을 지녔다는 것을 알려준 것이고, 다른 하나는 문왕 즉 대흠무(大欽茂)가 일본에 보낸 국서에서 스스로 ‘고려국왕대흠무(高麗國王大欽茂)’라고 자칭하였다. 발해가 고구려의 옛 땅을 회복하고 풍속을 소유했다는 표명위에서 고구려왕으로 자칭한 것은 고구려의 계승의 자부심을 뿌듯하게 나타낸 것이다. 이에 대한 일본의 답서[復書]에서도 그 칭호가 수용되었다. 이에 대하여 김육불은 대씨와 고구려가 종족적으로 혈윤관계(血胤關係)가 없었다면 어찌하여 이같은 말이 나왔겠는가 라고 하는 의문에서 『속일본기』를 중요시 하였다.幸いなことに武王と文王が日本に送った国書が『続日本紀』に載っている。国書で高句麗継承の痕跡をみつけることができる。一つは、728年、渤海の武王、大武芸が高句麗の故地を回復し、また扶餘の遺俗を有したということを知らせてくれた。他の一つは、文王すなわち大欽茂が日本に送った国書で自ら「高麗國王大欽茂」と自称した。渤海が高句麗の故地を回復し、扶餘の遺俗を有したと表明したうえ、高句麗王と自称したことは、高句麗の継承の誇りをあらわしたものである。これに対する日本の復書もその称号を使用した。これに対して金毓黻氏は大氏と高句麗が種族的に血胤關係になければ、どのような理由でこのような言葉がでてきただろうかという疑問から『続日本紀』を重要視した。 — 변인석、高句麗繼承의 대외표명 정재정(ソウル市立大学)や차미희(梨花女子大学)らは以下の主張をしている。 셋째, 발해 국왕 스스로가 일본에 보낸 국서에 고구려왕임을 밝히고 있고, 일본 기록을 보면 발해가 초기에 일시적으로 ‘고구려’라는 이름을 쓰고 있어. 발해가 일시적이지만 고구려라는 국호를 썼다면 이는 발해의 고구려 계승 의식이 분명했음을 보여주는 것이야.第三に、渤海国王自らが日本に送った国書には高句麗国王であると明らかにしており、日本の史料には、渤海の初期の一時期を「高麗」と書いている。渤海が初期の一時期であるが、高麗という国号を用いたのは、渤海が高麗の継承意識を明らかにしたことを示すためである。 — 공미라・김지수・김수옥・노정희・김애경、한국사 개념사전 99개의 개념으로 꿰뚫는 5000년 한국사 北朝鮮の蔡泰亨(朝鮮社会科学院歴史研究所)は以下の主張をしている。 高句麗遺民が中心となって建国…私たちはかつて渤海が高句麗の人たちによって建てられた国なのか、靺鞨人によって建てられた国なのか見当がつかなかった。そこで私たちは渤海史と関連した歴史記録を全面的に再検討する一方、渤海の遺跡遺物に対する調査発掘事業を広くすすめた。歴史文献に対する全面的な再検討を行う半面、遺跡遺物に対する調査発掘を通して渤海国が外でもなく朝鮮民族の国であった事実を明らかにした。…698年、大祚栄は渤海国の建国を宣布した。渤海国の創建で主導的な役割をになった勢力は高句麗遺民であり、建国のため唐との闘争を指揮したのは高句麗出身の将帥であった。『三国遺事』に引用された『新羅古記』には「高句麗の旧将帥 祚栄の姓は大氏」と記録されている。…渤海第二代王・大武芸が728年、日本に送った国書で渤海国は「高(句)麗の旧地を回復し、扶餘の遺した風俗をもつ」(『続日本紀』巻十・神亀五年・正月甲寅)としている。…私たちは「海東盛国」渤海の研究を深めることで渤海史を朝鮮民族史として正しく明らかにすることに寄与することができたと思っている。 — 蔡泰亨、渤海の歴史と考古学における新しい成果 韓圭哲(朝鮮語: 한규철、慶星大学)は、以下の主張をしている。 일본에 보낸 국서에서 “고구려의 옛 땅 되찾은 고려국” 자칭…발해는 일본에 보낸 국서에서 “고구려의 옛 땅을 찾고 부여의 풍속을 가지고 있는 고려국”이라고 자칭하였다. …이처럼 발해가 영토, 문화, 종족적인 측면에서 고구려를 계승한 것은 발해가 당나라의 지방정권이 아닌 자주적인 국가였음을 의미한다. 따라서 발해사는 당연히 한국사의 일부이며, 발해사의 주인공이 우리 민족이라는 사실은 너무도 명백하다.日本に送った国書で「高句麗の故地を取り戻した高麗国」を自称…渤海は日本に送った国書において「高句麗の故地を復し、扶餘の遺俗をもっている高麗国」と自称した。…このように渤海が領土、文化、種族的側面において高句麗を継承しているのは、渤海が唐の地方政権ではなく、自主的な国家であったことを意味する。したがって、当然、渤海は朝鮮の歴史の一部であり、渤海の主人公が韓民族であるという事実はあまりにも明白である。 — 韓圭哲 歴史著述家の윤희진は以下の主張をしている。 대조영이 어느 민족 출신인지보다 더 중요한 부분은 발해를 이끌어갔던 집단이 고구려인들이고, 이들이 고구려를 잇고 있음을 분명히 밝혔다는 사실이다. 일본의 기록에 “그 나라는 말갈이 많고 고구려인이 적지만, 고구려인들이 모두 이들을 지배하고 있다.”라고 했고, 최치원도 “옛날의 고구려가 지금의 발해가 되었다.”라고 했다. 또한 758년 발해 사신이 일본을 방문하여 전달한 국서에 당시의 왕인 문왕은 자신을 ‘고려국왕’이라고 했다.大祚栄の民族的出自について重要なのは、渤海を率いた集団が高句麗人であり、彼ら自身が高句麗の継承国であることを明らかにしたという事実である。日本の史料には「その国は靺鞨人が多く高句麗人は少ないが、高句麗人たちは皆靺鞨人を支配している」とあり、崔致遠も「昔の高句麗が今の渤海となった」としており、また758年に渤海使が日本を訪問して伝達した国書では、文王自らが「高麗国王」としている。 — 윤희진、인물한국사 韓国の文化体育観光部の所属機関である海外文化弘報院(朝鮮語版)は以下の主張をしている。 渤海は、高句麗を継承したという誇りを持ち、日本に送った文書にも高句麗王を意味する「高麗王」と表現しました。 — 海外文化弘報院 韓国の中学校教科書『国史』は以下の主張をしている。 高句麗が滅亡した後、高句麗遺民たちは様々な系統に分散した。一部の貴族たちは唐に連行されもしたが、多くの遺民たちは唐に積極的に対抗し、唐の軍隊と安東都護府を遼東地方に追い出した。折しも、唐の苛酷な収奪に悩まされていた契丹の酋長が反乱を起こすと、遼西地方にいた大祚栄はこれに乗じ、高句麗人と靺鞨人を率いて遼河を渡り、東へ移動した。唐は靺鞨人部隊を撃破し、高句麗遺民を追いかけた。大祚栄は追撃してくる唐軍を撃破して、高句麗遺民と靺鞨人とを集め、吉林省の東牟山付近に都を定め、渤海を建てた。渤海の住民は、主に高句麗人と靺鞨人であった。支配層の中心は高句麗人であり、被支配層は主に靺鞨人であった。高句麗を継承した渤海は、日本に送った外交文書に渤海を高句麗と、渤海王を高句麗王と称し、高句麗継承意識を明らかにした。渤海の建国により私たちの歴史は、統一新羅と渤海とが両立する、南北国の形勢を成すことになった。 — 中学校、国史、p73 韓国の中学校教科書『国史』は以下の主張をしている。 渤海は、当初高句麗継承意識をはっきりと持っていて、日本との外交文書でも高句麗王とするほどだった。そうした理由で、渤海と唐との関係は良くなかった。唐は、新羅・靺鞨族などを利用して、渤海を牽制しようとしたが、渤海は突厥と日本へ使臣を送り、それらと手を結んでこれに対抗した。また、渤海の武王は、海軍を派遣して唐の登州を攻撃させもした。しかし、文王以後から、渤海は唐と平和を維持して活発に往来しながら、その文化を受け入れた。 — 中学校、国史、渤海と唐 韓国の高等学校教科書『国史』は以下の主張をしている。 高句麗滅亡後、大同江以北と遼東地方の高句麗の地は安東都護府が支配していた。高句麗遺民は遼東地方を中心として、唐に抵抗し続けていた。7世紀末に至り、唐の地方に対する統制力が弱くなると、高句麗の将軍出身である大祚栄を中心とした高句麗遺民と靺鞨集団等は、戦争の被害をほとんど受けなかった満州東部地域に移動し、吉林省敦化市の東牟山麓に渤海を建てた。渤海の建国により、南の新羅と北の渤海とが共存する、南北国の形勢が成された。渤海は領域を拡大し、かつての高句麗領土の大部分を占めた。その領域には靺鞨族が多数居住してはいたものの、日本に送った国書に高麗または高麗国王という名称を使用した事実であるとか、文化の類似性から見て、渤海は高句麗を継承した国家であった。大祚栄の後を継いだ武王のときには領土拡張に力を注ぎ、東北方の様々な勢力を服属させて北満州一帯を掌握した。渤海の勢力拡大に伴って新羅は北方警戒を強化し、黒水部靺鞨も唐と連携しようとした。そこで渤海は、まず張文休の水軍によって唐の山東地方を攻撃する一方、遼西地域で唐軍と激突した。また突厥・日本等と連携しながら唐や新羅を牽制し、東北アジアで勢力均衡を維持することができた。続いて文王のときには唐と親善関係を結び、唐の文物を受け入れて体制を整備し、新羅とも常設交通路を開設して対立関係を解消しようとした。渤海が首都を中京から上京に移したのは、こうした支配体制の整備を反映したものである。渤海はこうした発展を土台として、中国と対等な地位にあることを対外的に誇示するため、仁安・大興などの独自の年号を使用した。渤海は9世紀前半の宣王のときに大部分の靺鞨族を服属させ、遼東地域に進出した。南へは新羅と国境を接するほどに広い領土を占め、地方制度も整備した。以後、全盛期を迎えた渤海を、中国人たちは「海東の盛国」と呼んだ。しかし10世紀初になると、部族を統一した契丹が東へ勢力を拡大してきた。渤海内部でも貴族たちの権力闘争が激化し、渤海の国力は大きく衰退し、ついに契丹の侵略を受けて滅亡した。 — 高等学校、国史、p56~p57 韓国政府の東北アジア歴史財団は以下の主張をしている。 渤海が当時周辺諸国と交流していた歴史事実が盛り込まれている資料の数々からも渤海は高句麗を継承した国であったことが分かる。(中略)渤海は諡号および年号を導入し、皇帝国家を標ぼうしていた。日本と交流した国書を通じては夫餘と高句麗を継承した独立国家であったことを確認でき、南の新羅とは新羅道を置き、国家としての交流をしながら南北国時代が設定される端緒を提供した。 — 東北アジア歴史財団、東アジアから見た渤海史 朴時亨は以下の主張をしている。 七二七年、渤海第二代の武王仁安八年に、王は日本との国交を開く最初の国書で渤海国の創建を通告して「渤海国は高麗の旧領土を回復し、夫余の遺俗を所有している」と述べた。「高句麗の旧領土を回復した」のがすなわち渤海であるならば、渤海人すなわち高句麗人でないはずはない。まして、かつての「夫余の遺俗」まで探し出して自己の祖先の系統を究明する人たちであるならば、彼らが高句麗人であることは明かである。次に、七五八年、渤海第三代の文王大興二一年に、王は日本の王への国書の中で、自らを直接「高麗国王大欽茂」と称した。この時の渤海の正式国号はまだ振国であり、対外的には国王が渤海郡王の称号を使いもした時であるが、王は「高麗国王」を自称することもあった。この「高麗国王」なる称号は、当時、対内・外的に通用していたものと思われる。「高麗国王」を自称する者は、もちろん高句麗の後継国の王以外にはあり得ない。これ以後永らく、渤海国王は日本に送る国書の中できまって「高麗国王」を自称し、日本王の答書もまた自然に「高麗国王」への答書とならざるを得なかった。(中略)日本の文献に残っている渤海王室そのものの宣言などによって論断すれば、渤海王室はまさに高句麗人であり、彼らの建国した国名が最初は振国、後に渤海と改称しはしたが、本質において高句麗の後継者であり、また、高句麗国そのものであるという結論を得る。渤海人自身が渤海王室、あるいは渤海国住民の性質について言及したものとしては、日本の史料以外にない。われわれはまず渤海人自身の言葉を聞かねばならない。 — 朴時亨、渤海史研究のために 韓国政府の東北アジア歴史財団の林相先(朝鮮語: 임상선)研究員は以下の主張をしている。 文王(大欽茂)時代の社会の性格と渤海社会が有していた自信感とを表現したのが、「天孫」と「皇上」という称号である。天孫という語は壱万福を大使とした使節一行が771年、日本に到着して、翌年、日本の天皇に伝えた渤海王の国書に現れる。即ち、昔の高句麗の時のように両国関係を兄弟と称するのではなく、舅甥(義父と婿)と称したという内容の記事が見える。天孫の称号を使用したことは、渤海が高句麗の天孫意識を継承することを裏付けるものであった。これとあわせて貞恵公主と貞孝公主の墓誌に現れる「皇上」「大王」という語に注目する必要がある。これらの墓誌には、文王を指す句節が数箇所にみえ、王を尊んで当時「大王」、「聖人」、「皇上」などと呼んでいたことが知られる。皇上という語は、臣下が皇帝を呼ぶときに使ったものであって、渤海で皇帝の称号が使用されていたことを証明する。先に指摘した天孫の称号とあわせ考えれば、なおさら妥当である。ところで、貞恵公主墓誌が書かれたのが780年、貞孝公主墓誌が書かれたのが792年、天孫という称号が日本で問題となったのが771年なので、すべて文王代後期に当たる。それゆえ、文王後期に天孫という称号とともに、皇帝の称号が使用されたことは確実である。(中略)『続日本紀』では、759年、渤海使節を高麗蕃客と表記して後、778年、大綱公広道を送高麗客使とするまで、高麗という語が渤海と併用されている。こうした現象がまる19年間続いたのである。日本の記録に高麗という語が現れる原因について、日本側の学者は対日外交のための一時的な用語と解釈する。また、渤海が高句麗の後継国家であるという事実を否定するための方便として、中国側の学者はこの史料の虚構性を強調することもある。しかし、日本人が当時の外交策略のために史料を歪曲したもの、と簡単に片付けてしまうことはできない。 — 林相先、渤海国の発展と高句麗継承 渤海人が自称したもう一つの国号としては「高麗」あるいは「高麗国」がある。高麗という名称は727年、渤海が日本に始めて派遣した使節に託した国書で「高麗の故地を回復し、扶余の遺俗を有った。」といい、「扶余」とともに「高麗」に言及した。758年には、楊承慶率いる渤海使節が日本を訪れ、伝えた国書では、当時の王である文王(大欽茂)が「高麗国王」と自称した。翌年、日本朝廷が帰国する渤海使節を通じて文王に送った国書でも、大欽茂を高麗国王と称している。以後、高麗国王あるいは高麗という名称が、一時期日本の記録に現れる。渤海人自ら、自身を「高麗」あるいは「高麗国」と称し、相手側でも同様に用いたということには、特別な意味がある。関連資料が新たに現れるまでは渤海初期、特に文王の時期に、渤海の国号が「高麗」であった可能性を否定することは難しいであろう。 — 林相先、渤海国の発展と高句麗継承 李基白(朝鮮語版)(朝鮮語: 이기백、西江大学)は以下の主張をしている。 우리 역사에서 渤海는 여러 각도에서 다른 견해가 있을 수 있다고 생각합니다. 高句麗 유민인 大祚榮(대조영)이 세웠고, 大祚榮의 후계자인 渤海 武王 스스로가 고구려의 後身임을 밝혔으니까 南北朝를 인정하지 않을 수 없습니다.朝鮮の歴史のなかで渤海は様々な角度から異なる見解があると考えられます。高句麗遺民の大祚栄が建国し、大祚栄の後継者である渤海王武王自らが高句麗の後身であることを明らかにしていることから、南北国を認めざるを得ません。 — 李基白 高句麗研究会(朝鮮語版)会長の徐吉洙(朝鮮語版)(朝鮮語: 서길수、西京大学)は以下の主張をしている。 建国後29年の727年(武王・大武芸9年)、渤海が日本に国交を結ぶために使節を送りつつ、渤海は「高句麗の昔の領土を回復し、夫餘から伝えられて来た風俗を修めている(復高麗之舊居 有夫餘之遺俗)」(『続日本紀』神亀5年1月17日条)とあり、高句麗を継承したことを明らかにしている。一方、渤海の使臣についての事実を記録した日本では、「渤海は昔の高句麗である(渤海郡者 舊 高麗國也)」(『続日本紀』神亀4年9月29日条)は、事実を明白に認識しており、 渤海と高句麗をあたかも同じ国のように混用している記録が非常に多い。 — 서길수、발해는 고구려를 이어받았다 これは第二次世界大戦以前に白鳥庫吉が主張したのが初見であるが、白鳥庫吉はこれを渤海王が高句麗人である根拠としている(ただし赤羽目匡由は、「渤海王が高句麗を継承した国の王である事実を、『高麗国王』自称から読み取るのは、白鳥氏が王族及び支配階級が高句麗人であった事実を読み取るのと同様に、決め手に欠く。政治的意図で『高麗国王』を自称したとみることも十分に可能だからである」と述べている)。また中国東北部(満州)で興起した民族や国家は、後の金に至るまで(函普も参照)起源と王権の正統性を夫余と高句麗から抽出したが、これは政治的に高句麗継承を標榜することにより、対外的な政治的優位性を獲得する意図があり、高句麗継承の標榜をそのまま単純に血統的継承と連結することはできないという指摘もある。 この『続日本紀』に記録されている大武芸が日本に送った国書に「高麗の古の土地を回復し、夫余の習俗を持っている」とあることや渤海使を高麗使と表記してあること、大欽茂が自らを高麗国王と自称するなど高句麗継承国であることを日本に標榜していたことを根拠に、一部で渤海は高句麗忌避症にかかった唐との摩擦を防止するために対外的な国号であって、対内的な国号は高麗だったという主張があるが、『続日本紀』にでてくる「渤海路」「渤海使」などの用語は隠蔽しており、渤海王が日本に送った国書に「高麗」「高麗使」「高麗国王」とあることをもってして渤海と高句麗の関係性や渤海の帰属問題を極度に単純化しているという批判を受けている。 朴時亨は、「天孫」の語から、渤海王が高句麗人さらには高句麗王室の血統を直接継承していると主張しており、「高句麗の始祖高朱蒙の父が天帝の子の解慕漱であり、母が河伯の娘柳花夫人である、ということにもとづくのはいうまでもない」「(渤海王が)たんに高句麗人であるばかりでなく、高句麗王室の血統を直接継承した家系であることになる」と述べている。これについて石井正敏は、「直ちに高句麗王室の血統を引く者とする点は如何であろうか」と評しており、赤羽目匡由は「朴時亨氏のように『天孫』の語より渤海王が高句麗王室の血統を継ぐとするのは妥当ではないと思う」と評している。 卞麟錫(朝鮮語: 변인석、英語: Pyun, In-seok、亜洲大学)は、高句麗の旧居を復したという対外表明は各地に散乱していた高句麗人や靺鞨人を収集するうえでの政策であると評価でき、それらの故国である高句麗の旧居を復したという高句麗継承標榜が求心力となり、この表明の旗印のもとで営州に散乱していた高句麗人や靺鞨人を収集し、さらに、高句麗の旧居を復し、その地の主権・歴史・文化・風俗を守ることこそが執政の目標とされ、これは特に大祚栄、大武芸、大欽茂の三代の重要政策であり、領土を拡大し、国土を開拓する過程で多数の民族を吸収してきたため、高句麗継承標榜は実践的な意味を持つとしている。 李鍾旭(朝鮮語: 이종욱、西江大学)は、「渤海から唐へ送った国書には、彼らの国号が『靺鞨』と自称していたことが『新唐書』に記録されている」「渤海王が日本に使臣を派遣した際、高句麗王を自称したのは事実ですが、日本史書には『渤海』という用語は、より多く使用されている。初めて渤海人が国を建国した時、国名を『靺鞨』とした。713年に唐から『靺鞨』の王に『渤海郡王』という称号を与えられ、渤海という国名を使用します。もし大祚栄が高句麗人なら、何故『靺鞨』を名乗ったのでしょうか。靺鞨は高句麗人より身分がはるかに劣る種族です」「渤海には高句麗人がいましが、高句麗人が渤海の主流勢力とはみていません。高句麗滅亡後、唐は20万人の高句麗人を連行しました。新羅も高句麗人7000人を捕らえました。高句麗王や王子、貴族などの中心勢力はすべて捕らえられました。残存した高句麗人が渤海の上層部に編入されたとしても、渤海王と多くの支配階級は靺鞨人だったはずです」と述べている。 金香は、「天子」の称号が高句麗だけのものではないこと、帝王を「天孫」とする表現は中原にも高句麗・渤海にもみられず、「天孫」はただ星の名を表すに過ぎないこと、ここにみえる「天孫」は渤海の自称ではなく日本の改作であることなどを挙げて、「天孫」の語は渤海の高句麗継承意識とは関係ないとする。 王健群(吉林省文物考古研究所)は、「天孫」とは「天子」より一段格を落として僭越を避けたものとみなし、これ自体が「天子」である朱蒙と必然的に関係がないことを証明していると指摘している(『好太王碑』には「出自北夫余天帝之子。」とある)。 朱国忱(黒竜江省文物考古研究所)と魏国忠(黒竜江省社会科学院歴史研究所)は、天孫思想が高句麗だけのものではないことを挙げて、ここでの「天孫」をいずれも高句麗始祖朱蒙の天帝出自説とは必ずしも関連づけられないとする。 崔紹熹(遼寧師範大学)は、大欽茂の高麗国王自称は、東方拓彊の時期にあたり、東京龍原府一帯に依然として強い勢力を有していた高句麗人勢力を、征服・統治するのに有利であったためとし、国内の一地域の高句麗人支配という国内的意味があったとしている。 王健群(吉林省文物考古研究所)は、「復高麗之舊居、有扶餘之遺俗。」を「高句麗の故地を領有し、夫余の文化を具有した」と解釈するのは正しいが、「大氏は高句麗人である」と主張しているわけではなく、渤海が高句麗継承国である理由の説明もない。「高麗國王大欽茂言。」は、楊承慶が口奏で大欽茂を「高麗國王」と称したに過ぎず、具体的な論拠も示していない。さらに『続日本紀』は、楊承慶を天平宝字二年九月には「渤海大使」とし、同年十二月壬戌にも「渤海使」としているが、七日後の天平宝字三年元日に突然「高麗蕃客」と改称しており、同一人物である楊承慶を「渤海大使」「渤海使」「高麗蕃客」と異表記していることは、史官が渤海と高句麗を混同したことによる技術的混乱であり、それらは渤海自ら高句麗を自称しているのではない。「高麗國王大欽茂言。」の一節は、国書ではなく、渤海使による口奏であり、国書と口奏は『続日本紀』では厳格に区別されている。天平勝宝五年五月に慕施蒙が孝謙天皇に拝謁した際は「渤海王言日本照臨聖天皇朝。」と口奏し、楊承慶が口奏した「高麗國王大欽茂言。」も慕施蒙が口奏した「渤海王言」もともに渤海使が口奏したのであり、大欽茂が自称したのではない。「高麗國王大欽茂言。」と口奏した楊承慶より先に来朝した慕施蒙は大欽茂を「渤海王言」と口奏しており、もともと大欽茂は「渤海王」と称していたと解釈するのが妥当であり、一介の使臣が国王の言葉をむやみに修正するはずがなく、もともと楊承慶は慕施蒙と同様に大欽茂を「渤海王」と口奏し、「高麗國王」とは口奏していない蓋然性が高く、同一人物である楊承慶を「渤海大使」「渤海使」「高麗蕃客」と異表記したことと同様に史官が渤海と高句麗を混同したことによる技術的混乱であると主張している。 徐徳源(遼寧大学)は、高麗国王自称は、唐朝廷の控制を脱し独立国家となることを実現するための外交的手段とし、独立国としての王権強化という国内的意味があったとしている。さらに、渤海王が「天孫」号を用いたことを、高句麗継承意識とは関係がないとしつつ、唐の政権下では渤海と日本とは対等な自立国であることから、日本に対等の地位を求めようとしたものとしている。 魏国忠(黒竜江省社会科学院歴史研究所)、郭素美(黒竜江省社会科学院歴史研究所)、魏建華(黒竜江省社会科学院歴史研究所)は、初めて日本が渤海に朝貢を要求した際に『高麗旧記』を引き合いに出しており、その後、天皇が渤海王に宛てた国書には「高氏継緒、毎慕化而相尋、大家復基、亦占風而靡絶。」「昔高麗全盛時。其王高武。祖宗奕世。介居瀛表。親如兄弟。義若君臣。帆海梯山。朝貢相續。逮乎季歳。高氏淪亡。自尓以來。音問寂絶。爰洎神龜四年。王之先考左金吾衛大將軍渤海郡王遣使來朝。始修職貢。」とあり、日本にとって高句麗とは古の朝貢国・属国であるため、日本は渤海を臣従させ、日本が渤海を属国にして朝貢させるため、渤海は高句麗の継承国であるというデマを一方的に仕組んで、渤海を「高麗」或いは「高句麗」、渤海王を「高麗国王」、その使者を「高麗大使」と呼び、渤海に派遣された日本の使節や船は「遣高麗使」「送高麗人使」「遣高麗国船」と強引に呼んだが、これに対して渤海は「高麗」という名称に抵抗・反発したため、両国間で長期にわたる交渉がおこなわれ、所謂「高麗」問題をめぐり争ったが、結局、日本は事実に直面して敗北を認めざるをえず、最終的に渤海を「高麗」と称することをあきらめたと主張している。 鈴木靖民は、『続日本紀』渤海関連記事に、渤海郡は「旧の高麗国なり」とあり、渤海王の啓に「高麗の旧居を復す」とあり、平城京出土木簡に遣渤海使を「遣高麗使」と記すなど、8世紀の日本支配層は、渤海を高句麗継承国に位置付けるため、高麗と号することがあり、日本の対渤海外交は新羅とともに渤海に朝貢を要求するものであったが、渤海は「高麗」と自称することで、対日本交渉の歴史的根拠として高句麗の後継国意識を示しつつ、渤海使も国交を続けるためにそれに合わせていた、と述べている。 堀敏一は、「高麗国王」が実際は「渤海王」を指し、何故「高麗国王」と記されたかについて明快な指摘をおこなっている。日本は渤海を高句麗の後身として、日本に臣従するよう要求する国書を天平勝宝五年と宝亀三年に送ったが、この要求は前後一貫しているわけではなく、高麗の称号のおこなわれた時期はその間に含まれ、渤海を高麗と称するのは天平宝字二年から天平宝字六年までが盛んで、以後は渤海の語句を用い、高麗の語句は散発的に残っているに過ぎず、高麗の呼称が盛行した時期は藤原仲麻呂の執政期にあたる。それは、新羅征討計画が練られた時期と重なり、渤海と友好関係もちたかった藤原仲麻呂は渤海に対する強硬姿勢を改め、新羅に滅ぼされ、新羅に復讐する国の名としてか、かつて高句麗とは同盟関係にあったという誤記憶からか、渤海に対して高麗の名を用いた。そして、藤原仲麻呂失脚後最初の宝亀三年の国書から、再び渤海に対する強硬姿勢が続くことになる。 いずれにせよ第二次世界大戦後に石井正敏により、渤海から日本へ贈られた第一回国書の分析を通して渤海王の自称「高麗国王」がかつての附庸国高句麗に位置づけようとする日本の対外政策と要求に迎合したものであるとする説が唱えられ、石井説を支持する研究者(古畑徹、赤羽目匡由、酒寄雅志、浜田久美子、姜成山、浜田耕策、河添房江、菅澤庸子、石上英一、廣瀬憲雄、平野卓治、森公章、田島公、河内春人、河合敦など)が、日本史料の解釈の恣意性を批判しており、日本学界から問題視されている。 この石井説に対して韓国政府の東北アジア歴史財団の林相先(朝鮮語: 임상선)研究員は、「日本の記録に高麗という語が現れる原因について、日本側の学者は対日外交のための一時的な用語と解釈する。また、渤海が高句麗の後継国家であるという事実を否定するための方便として、中国側の学者はこの史料の虚構性を強調することもある。しかし、日本人が当時の外交策略のために史料を歪曲したもの、と簡単に片付けてしまうことはできない。渤海が727年、日本に始めて使節を送ったときから、渤海は『高句麗の故地を回復した。』と称したが、そうした高句麗継承意識がこの時期になって本格的に標榜され始めたとみなければならない。渤海の高句麗継承意識は、単に政治的次元ではなく、過去の強大国であった高句麗を継承したという自尊心に根ざしたものであった。771年、日本に送った国書で自身を天孫と称し、自身を舅の国、日本を甥の国と規定しようとしたことは、このような事実をはっきりと示す。こうした継承意識は文王代に実施された一連の改革政策により、国力が大きく伸長したことでさらに強化されたのであって、ついには文王後期に高麗国を標榜したものとおもわれる」と開き直っている。一方、李孝珩(朝鮮語: 이효형、釜山大学)は「渤海は過去強国だった高句麗の後身という立場で『高麗』という国号を自称し、日本は過去の朝貢国だった『高句麗』を渤海が継承したと認識したのである」「そして渤海は過去強国だった高句麗の後身という立場で『高麗』という国号を自称し、日本は渤海の過去の朝貢国であった高句麗を継承した国であると認識したのである。日本が渤海との交流を通じて受けた影響力や、当時の日本の必要性を究明したという点は高く評価できる」と述べている。
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