『続日本紀』巻二二・淳仁天皇・天平宝字三年正月の渤海王の自称「高麗国王」論争とは? わかりやすく解説

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『続日本紀』巻二二・淳仁天皇・天平宝字三年正月の渤海王の自称「高麗国王」論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:19 UTC 版)

渤海 (国)」の記事における「『続日本紀』巻二二・淳仁天皇・天平宝字三年正月の渤海王の自称「高麗国王」論争」の解説

日本史『続日本紀』類聚国史』には、日本渤海外交交渉において日本渤海を「高麗」と呼び大欽茂が「高麗国王」と自称するなど高句麗継承意識表明していることが記載されている。 1 庚午。帝臨軒。高麗使楊承慶等貢方物。奏曰。高麗國大欽茂言。承聞。在於日本照臨八方聖明皇帝登遐天宮。攀號感慕。不能黙止。是以。差輔國將軍楊承慶。歸徳將軍楊泰師等。令齎表文并常貢物入朝。 — 続日本紀、巻二二 中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります續日本紀/卷第廿二 2 武藝忝當列國濫惣諸蕃、復高麗舊居、有扶餘遺俗。但以天涯路阻、海漢悠悠、音耗未通、吉凶絶問、親仁結援。庶叶前經、通使聘隣、始乎今日武藝、忝なくも列国に当り濫りに諸蕃統べ高麗旧居復して扶余遺俗を有てり。但だ天崖路阻たり、海漢(漠か)悠々たるを以て、音耗未だ通ぜず吉凶問を絶つ。仁に親しみ援を結ぶこと、庶くは前経に叶ひ、使を通じ隣に聘すること、今日始めん。 — 続日本紀神亀年正月甲寅条 中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります續日本紀/卷第十 3 書尾虚陳天孫僭号。 — 続日本紀、巻三二 中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります續日本紀/卷第卅二 4 慕化之勤、可尋蹤於高氏。 — 類聚国史巻一三 中国語ウィキソースに本記事関連した原文あります日本後紀/卷第七 このうち4は桓武天皇が以下の渤海王宛の勅書で、古の高句麗みたく朝貢形式の臣礼を要求したことを承諾して大嵩璘述べたものであり、日本意向に添ってでも交易円滑に進めたい意思うかがえ1、2、3の高句麗継承意識とは異なり日本追従恭順する意思表明したものとなる(高氏高句麗王姓、大家渤海王室)。 彼渤海之国、隔以滄溟、世脩聘礼、有自来矣。高氏継緒、毎慕化而相尋、大家復基、亦占風而靡絶。彼の渤海の国、隔つるに滄溟を以てするも、世よ聘礼を脩め、自来せ有り往者高氏緒を継ぎ毎に化を慕いて相い尋ぎ、大家基を復するや、亦た風を占い絶ゆる靡し。 — 類聚国史巻一三 中国語ウィキソースに本記事関連した原文あります日本後紀/卷第七 これを以て渤海高句麗継承国強く自任していた証拠とする場合往々見受けられ、特に韓国北朝鮮研究者はこの日本史料にある日本が渤海を「高麗」と呼び渤海王が「高麗国王」と自称していたことこそが渤海王高句麗人だった、渤海高句麗継承国だった最大証拠だと主張している。また、朴時亨は、大欽茂日本送った国書で自らを「天孫」と自称しており、高朱蒙天帝息子であるため、天孫とは高句麗王家のことであり、渤海王が「天孫」を自称したことは、渤海王高句麗王家の血統であること意味し渤海高句麗人が建国した高句麗継承国であることの証明であると主張している。 Daum百科事典は以下の主張をしている。 건국 초기에는 스스로 진국(震國)이라 칭했으며 일본과의 사절교환시에는 고구려의 계승을 강조하며 '고려'(高麗)로 칭하기도 했다.建国初期は、自ら震國称し日本との外交使節交換時には高句麗継承強調し高麗」と称した。 — Daum百科事典 Chunjae Education. INC.朝鮮語版)は以下の主張をしている。 그 당시 일본과 오고 간 문서를 보면 정확히 알 수 있어. 분명 고려(고구려)의 후예라고 자처하는 내용이 있고, 일본도 인정을 했지当時日本との外交文書見れば正確に知ることができる。明らかに高句麗後裔自認する内容があり、日本もそれを認めていた。 — 천재학습백과 초등 사회 5-2 斗山世界大百科事典は以下の主張をしている。 제3대 문왕은 일본에 보낸 국서에서 스스로를 ‘고구려(高句麗) 국왕’이라고 칭하였다. 이와 같이 발해국은 고구려 계통임을 분명히 밝혔다.第三代の文王日本送った国書で自らを高句麗国王称したこのように渤海は自らを高句麗系であると明らかにした。 — 斗山世界大百科事典韓国民族文化大百科事典』は以下の主張をしている。 그리고 문왕(文王)시대에는 일본과의 외교에서 고구려의 천손의식(天孫意識)을 원용해 천손이란 용어를 사용했고, 그의 후반기에는 고구려 계승국이라는 의미로서 고려국(高麗國)을 표방하기도 하였다.강왕(康王)시대에도 일본에 보낸 국서(國書)에 고구려 계승의식이 집중적으로 나타나 있다. 강왕 스스로 국서에서 이러한 의식을 표명한 것은 발해 지배층의 인식을 밝히고 있는 것이어서 주목된다.한편 872년에 일본에서 고구려 계통의 사람을 내세워 발해 사신을 접대했던 사실을 볼 때 고구려 계승의식이 지속되었음을 분명히 알 수 있다. 따라서 발해사의 고구려 계승성은 자명하다고 할 수 있다.文王時代には、日本との外交高句麗天孫意識援用して天孫という用語を使用しており、文王後期には、高句麗継承国という意味で高麗国標榜した。康王時代にも日本送った国書高句麗継承意識集中的にあらわれている。康王国書において、これらの意識表明したのは、渤海支配層認識明らかにしたものであり、注目される一方872年日本高句麗系の人を渤海使臣の応対をさせたという事実をみたときに、高句麗継承意識持続していたことが明確にわかる。したがって渤海高句麗継承性自明であるということができる。 — 한국민족문화대백과사전、남북국시대(南北國時代) EBSi朝鮮語版)の歴史講師である이다지は以下の主張をしている。 아쉽게도 발해가 자국의 역사서를 편찬하진 않았지만 당시 다른 나라와 교류했던 외교 문서는 남아 있습니다. 좀 있다 보겠지만 발해가 일본이랑 친했거든요. 일본에 보낸 국서를 보면 발해왕이 스스로를 ‘고려 국왕’이라고 합니다.残念ながら渤海自国歴史書編纂していないが、当時他国との交流において外交文書残っている。渤海日本親交した。日本送った国書を見ると、渤海王が自らを高麗国といっている。 — 이다지 한국사 1 - 전근대 : 흥미진진 스토리텔링으로 한국사 다지기 卞麟錫(朝鮮語: 변인석、英語: Pyun, In-seok、亜洲大学)は以下のように述べている。 천제(天帝)의 아들 해모수(解慕潄)가 도읍을 정한 건국신화에서 발해의 천손 즉 천제의 아들이라는 선택된 긍지와 같은 뿌리를 엿보게 한다. 고구려의 시조 주몽의 아버지 해모수가 나라를 세운 건국과정은 『삼국사기』에 자세하다....이 같이 고구려 왕실을 낳은 천손사상의 표명은 772년(대흥(大興) 34) 발해의 대문왕이 일본 왕에게 보낸 국서에서 ‘천제의 아들’이라고 밝힌 데에서 알 수 있다.天帝息子解慕漱が都を定めた建国神話を、渤海天孫すなわち天帝息子として選択したのは誇りうかがわせる高句麗始祖朱蒙の父解慕漱が国を建国した過程は『三国史記』に詳しい。...このような高句麗王家を産んだ天孫思想表明は、772年渤海文王天皇送った国書で「天帝息子」と明らかにしたことから知ることができる。 — 변인석、天孫의 표명 卞麟錫(朝鮮語: 변인석、英語: Pyun, In-seok、亜洲大学)は以下のように述べている。 다행히 무왕과 문왕이 일본에 보낸 국서가 『속일본기』에 실려 있다. 국서(國書)에서 고구려 계승의 흔적을 찾아낼 수 있다. 하나728년(開元 16) 발해의 무왕, 대무예가 고구려의 옛 땅을 회복하고 또 부여의 유속을 지녔다는 것을 알려준 것이고, 다른 하나는 문왕 즉 대흠무(大欽茂)가 일본에 보낸 국서에서 스스로 ‘고려국왕대흠무(高麗國大欽茂)’라고 자칭하였다. 발해가 고구려의 옛 땅을 회복하고 풍속을 소유했다는 표명위에서 고구려왕으로 자칭한 것은 고구려의 계승의 자부심을 뿌듯하게 나타낸 것이다. 이에 대한 일본의 답서[復書]에서도 그 칭호가 수용되었다. 이에 대하여 김육불은 대씨와 고구려가 종족적으로 혈윤관계(血胤關係)가 없었다면 어찌하여 이같은 말이 나왔겠는가 라고 하는 의문에서 『속일본기』를 중요시 하였다.幸いなことに武王文王日本送った国書『続日本紀』載っている。国書高句麗継承痕跡をみつけることができる。一つは、728年渤海武王大武芸高句麗故地回復し、また扶餘遺俗有したということ知らせてくれた。他の一つは、文王すなわち大欽茂日本送った国書で自ら「高麗國大欽茂」と自称した渤海高句麗故地回復し扶餘遺俗有した表明したうえ、高句麗王自称したことは、高句麗継承誇りあらわしたのである。これに対す日本の復書もその称号使用した。これに対して金毓黻氏は大氏と高句麗種族的に血胤關係になければ、どのような理由このような言葉がでてきただろうかという疑問から『続日本紀』重要視した。 — 변인석、高句麗繼承의 대외표명 정재정(ソウル市立大学)や차미희(梨花女子大学)らは以下の主張をしている。 셋째, 발해 국왕 스스로가 일본에 보낸 국서에 고구려왕임을 밝히고 있고, 일본 기록을 보면 발해가 초기에 일시적으로 ‘고구려’라는 이름을 쓰고 있어. 발해가 일시적이지만 고구려라는 국호를 썼다면 이는 발해의 고구려 계승 의식이 분명했음을 보여주는 것이야.第三に、渤海国王自らが日本送った国書には高句麗国王であると明らかにしており、日本史料には、渤海初期一時期を「高麗と書いている。渤海初期一時期であるが、高麗という国号用いたのは、渤海高麗継承意識明らかにしたことを示すためである。 — 공미라・김지수・김수옥・노정희・김애경、한국사 개념사전 99개의 개념으로 꿰뚫는 5000년 한국사 北朝鮮の蔡泰亨(朝鮮社会科学院歴史研究所)は以下の主張をしている。 高句麗遺民中心となって建国私たちはかつて渤海高句麗の人たちによって建てられた国なのか、靺鞨人によって建てられた国なのか見当がつかなかった。そこで私たち渤海史と関連した歴史記録全面的に再検討する一方渤海遺跡遺物対す調査発掘事業広くすすめた歴史文献対す全面的な再検討を行う半面遺跡遺物対す調査発掘通して渤海国が外でもなく朝鮮民族の国であった事実明らかにした。…698年大祚栄渤海国建国宣布した。渤海国創建主導的な役割になった勢力高句麗遺民であり、建国のため唐との闘争指揮したのは高句麗出身将帥であった『三国遺事』引用された『新羅古記』には「高句麗の旧将帥 祚栄の姓は大氏」と記録されている。…渤海第二代王大武芸728年日本送った国書渤海国は「高(句)麗の旧地回復し扶餘の遺した風俗をもつ」(『続日本紀』十・神亀五年・正月甲寅)としている。…私たちは「海東盛国」渤海研究深めることで渤海史を朝鮮民族史として正しく明らかにすることに寄与することができたと思っている。 — 蔡泰亨、渤海歴史考古学における新し成果 韓圭哲(朝鮮語: 한규철、慶星大学)は、以下の主張をしている。 일본에 보낸 국서에서 “고구려의 옛 땅 되찾은 고려국” 자칭…발해는 일본에 보낸 국서에서 “고구려의 옛 땅을 찾고 부여의 풍속을 가지고 있는 고려국”이라고 자칭하였다. …이처럼 발해가 영토, 문화, 종족적인 측면에서 고구려를 계승한 것은 발해가 당나라의 지방정권이 아닌 자주적인 국가였음을 의미한다. 따라서 발해사는 당연히 한국사의 일부이며, 발해사의 주인공이 우리 민족이라는 사실은 너무도 명백하다.日本送った国書で「高句麗故地取り戻した高麗国」を自称渤海日本送った国書において「高句麗故地復し扶餘遺俗をもっている高麗国」と自称した。…このように渤海領土文化種族側面において高句麗継承しているのは、渤海が唐の地方政権ではなく自主的な国家であったことを意味する。したがって、当然、渤海朝鮮の歴史一部であり、渤海主人公韓民族であるという事実はあまりにも明白である。 — 韓圭哲 歴史著述家の윤희진は以下の主張をしている。 대조영이 어느 민족 출신인지보다 더 중요한 부분은 발해를 이끌어갔던 집단이 고구려인들이고, 이들이 고구려를 잇고 있음을 분명히 밝혔다는 사실이다. 일본의 기록에 “그 나라는 말갈이 많고 고구려인이 적지만, 고구려인들이 모두 이들을 지배하고 있다.”라고 했고, 최치원도 “옛날의 고구려가 지금의 발해가 되었다.”라고 했다. 또한 758년 발해 사신이 일본을 방문하여 전달한 국서에 당시의 왕인 문왕은 자신을 ‘고려국왕’이라고 했다.大祚栄民族的出自について重要なのは、渤海率いた集団高句麗人であり、彼ら自身高句麗継承国であることを明らかにしたという事実である。日本史料には「その国は靺鞨人が多く高句麗人は少ないが、高句麗人たちは皆靺鞨人を支配している」とあり、崔致遠も「昔の高句麗が今の渤海となった」としており、また758年渤海使日本訪問して伝達した国書では、文王自らが「高麗国王」としている。 — 윤희진、인물한국사 韓国の文化体育観光部の所属機関である海外文化弘報院(朝鮮語版)は以下の主張をしている。 渤海は、高句麗継承したという誇り持ち日本送った文書にも高句麗王意味する高麗王」と表現しました。 — 海外文化弘報韓国中学校教科書国史』は以下の主張をしている。 高句麗滅亡した後、高句麗遺民たちは様々な系統分散した一部貴族たちは唐に連行されもしたが、多く遺民たちは唐に積極的に対抗し、唐の軍隊安東都護府遼東地方追い出した折しも、唐の苛酷な収奪悩まされていた契丹酋長反乱を起こすと、遼西地方にいた大祚栄はこれに乗じ高句麗人と靺鞨人を率いて遼河渡り東へ移動した。唐は靺鞨人部隊を撃破し高句麗遺民追いかけた。大祚栄追撃してくる唐軍撃破して、高句麗遺民靺鞨人とを集め吉林省東牟山付近に都を定め渤海建てた渤海住民は、主に高句麗人と靺鞨であった支配層中心高句麗人であり、被支配層は主に靺鞨であった高句麗継承した渤海は、日本送った外交文書渤海高句麗と、渤海王高句麗王称し高句麗継承意識明らかにした。渤海の建国により私たち歴史は、統一新羅と渤海とが両立する南北国の形勢を成すことになった。 — 中学校国史、p73 韓国中学校教科書国史』は以下の主張をしている。 渤海は、当初高句麗継承意識をはっきりと持っていて、日本との外交文書でも高句麗王とするほどだった。そうした理由で、渤海唐との関係良くなかった。唐は、新羅靺鞨族などを利用して渤海牽制しようとしたが、渤海突厥日本使臣送り、それらと手を結んでこれに対抗したまた、渤海武王は、海軍派遣して唐の登州攻撃させもした。しかし、文王以後から、渤海は唐と平和を維持して活発に往来しながら、その文化受け入れた。 — 中学校国史渤海と唐 韓国高等学校教科書国史』は以下の主張をしている。 高句麗滅亡後大同江以北遼東地方高句麗の地は安東都護府支配していた。高句麗遺民遼東地方中心として、唐に抵抗し続けていた。7世紀末に至り、唐の地方対す統制力弱くなると、高句麗将軍出身である大祚栄中心とした高句麗遺民靺鞨集団等は、戦争被害をほとんど受けなかった満州東部地域移動し吉林省敦化市東牟山麓渤海建てた渤海の建国により、南の新羅と北の渤海とが共存する南北国の形勢成された。渤海領域拡大し、かつての高句麗領土大部分占めた。その領域には靺鞨族が多数居住していたものの、日本送った国書高麗または高麗国王という名称を使用した事実であるとか、文化類似性から見て渤海高句麗継承した国家であった大祚栄の後を継いだ武王ときには領土拡張に力を注ぎ東北方の様々な勢力服属させて北満州一帯掌握した渤海勢力拡大伴って新羅北方警戒強化し黒水部靺鞨も唐と連携しようとした。そこで渤海は、まず張文休の水軍によって唐の山東地方攻撃する一方遼西地域唐軍激突した。また突厥日本等と連携しながら唐や新羅牽制し東北アジア勢力均衡維持することができた。続いて文王ときには唐と親善関係を結び、唐の文物受け入れて体制整備し新羅とも常設交通路開設して対立関係解消しようとした。渤海首都中京から上京移したのは、こうした支配体制整備反映したのである渤海はこうした発展土台として、中国対等な地位にあることを対外的誇示するため、仁安大興などの独自の年号使用した渤海9世紀前半宣王のときに大部分靺鞨族を服属させ、遼東地域進出した南へ新羅国境接するほどに広い領土占め地方制度整備した以後全盛期迎えた渤海を、中国人たちは「海東の盛国」と呼んだ。しかし10世紀初になると、部族統一した契丹東へ勢力拡大してきた。渤海内部でも貴族たちの権力闘争激化し渤海国力大きく衰退し、ついに契丹侵略受けて滅亡した。 — 高等学校国史、p56~p57 韓国政府東北アジア歴史財団は以下の主張をしている。 渤海当時周辺諸国交流していた歴史事実盛り込まれている資料数々からも渤海高句麗継承したであったことが分かる。(中略渤海諡号および年号導入し皇帝国家を標ぼうしていた。日本交流した国書通じて夫餘高句麗継承した独立国家であったことを確認でき、南の新羅とは新羅道を置き、国家としての交流しながら南北国時代設定される端緒提供した。 — 東北アジア歴史財団東アジアから見た渤海朴時亨は以下の主張をしている。 七二七年、渤海第二代の武王仁安八年に、王は日本との国交を開く最初国書渤海国創建通告して「渤海国高麗旧領土を回復し夫余遺俗所有している」と述べた。「高句麗旧領土を回復した」のがすなわち渤海であるならば、渤海人すなわち高句麗人でないはずはない。まして、かつての「夫余遺俗」まで探し出して自己の祖先系統究明する人たちであるならば、彼らが高句麗人であることは明かである。次に七五八年渤海第三代の文王大興二一年に、王は日本の王への国書の中で、自らを直接高麗国大欽茂」と称した。この時の渤海の正式国号はまだ振国であり、対外的には国王渤海郡王の称号使いもした時であるが、王は「高麗国王」を自称することもあった。この「高麗国王」なる称号は、当時対内外的に通用していたもの思われる。「高麗国王」を自称する者は、もちろん高句麗後継国の王以外にはあり得ない。これ以後永らく渤海国王は日本に送る国書の中できまって高麗国王」を自称し日本王の答書もまた自然に高麗国王」への答書ならざるを得なかった。(中略日本文献残っている渤海王そのもの宣言などによって論断すれば、渤海王室はまさに高句麗人であり、彼らの建国した国名最初は振国、後に渤海改称しはしたが、本質において高句麗後継者であり、また、高句麗そのものであるという結論を得る。渤海人自身渤海王室、あるいは渤海国住民性質について言及したものとしては、日本史料以外にない。われわれはまず渤海人自身言葉を聞かねばならない。 — 朴時亨渤海研究のために 韓国政府東北アジア歴史財団林相先(朝鮮語: 임상선)研究員は以下の主張をしている。 文王大欽茂時代社会性格渤海社会有していた自信感とを表現したのが、「天孫」と「皇上」という称号である。天孫という語は壱万福大使とした使節一行771年日本到着して翌年日本の天皇伝えた渤海王国書現れる。即ち、昔の高句麗時のように両国関係兄弟称するではなく、舅甥(義父と婿)と称したという内容記事見える。天孫称号使用したことは、渤海高句麗天孫意識継承することを裏付けるものであった。これとあわせて貞恵公主と貞孝公主の墓誌現れる皇上」「大王」という語に注目する必要がある。これらの墓誌には、文王を指す句節が数箇所にみえ、王を尊んで当時大王」、「聖人」、「皇上」などと呼んでいたことが知られる皇上という語は、臣下皇帝を呼ぶときに使ったものであって渤海皇帝称号使用されていたことを証明する先に指摘した天孫称号とあわせ考えればなおさら妥当である。ところで、貞恵公主墓誌が書かれたのが780年貞孝公主墓誌が書かれたのが792年天孫という称号日本問題となったのが771年なので、すべて文王後期に当たる。それゆえ文王後期天孫という称号とともに皇帝称号使用されたことは確実である。(中略『続日本紀』では、759年渤海使節を高麗蕃客表記して後、778年大綱広道を送高麗客使とするまで、高麗という語が渤海併用されている。こうした現象がまる19年続いたのである日本記録高麗という語が現れる原因について日本側の学者対日外交のための一時的な用語と解釈するまた、渤海高句麗後継国家であるという事実を否定するための方便として、中国側学者はこの史料虚構性を強調することもある。しかし、日本人当時外交策略のために史料歪曲したもの、と簡単に片付けてしまうことはできない。 — 林相先、渤海国発展高句麗継承 渤海人自称したもう一つの国号としては「高麗」あるいは「高麗国」がある。高麗という名称は727年渤海日本始めて派遣した使節託した国書で「高麗故地回復し扶余遺俗有った。」といい、「扶余とともに高麗」に言及した758年には、楊承慶率い渤海使節が日本訪れ伝えた国書では、当時の王である文王大欽茂)が「高麗国王」と自称した翌年日本朝廷帰国する渤海使節を通じて文王送った国書でも、大欽茂高麗国王と称している。以後高麗国王あるいは高麗という名称が、一時期日本記録現れる渤海人自ら、自身を「高麗」あるいは「高麗国」と称し相手側でも同様に用いたということには、特別な味がある関連資料新たに現れるまでは渤海初期、特に文王時期に、渤海国号が「高麗であった可能性否定することは難しであろう。 — 林相先、渤海国発展高句麗継承 李基白朝鮮語版)(朝鮮語: 이기백、西江大学)は以下の主張をしている。 우리 역사에서 渤海는 여러 각도에서 다른 견해가 있을 수 있다고 생각합니다. 高句麗 유민인 大祚榮(대조영)이 세웠고, 大祚榮의 후계자인 渤海 武王 스스로가 고구려의 後身임을 밝혔으니까 南北朝인정하지 않을 수 없습니다.朝鮮の歴史のなかで渤海様々な角度から異なる見解があると考えられます。高句麗遺民大祚栄建国し、大祚栄後継者である渤海王武王自らが高句麗後身であることを明らかにしていることから、南北国を認めざるを得ません。 — 李基白 高句麗研究会朝鮮語版会長の徐吉洙(朝鮮語版)(朝鮮語: 서길수、西京大学)は以下の主張をしている。 建国後29年727年武王・大武芸9年)、渤海日本国交を結ぶために使節送りつつ、渤海は「高句麗の昔の領土回復し夫餘から伝えられて来た風俗修めている(復高麗舊居 有夫餘之遺俗)」(『続日本紀』神亀5年1月17日条)とあり、高句麗継承したことを明らかにしている。一方渤海使臣についての事実記録した日本では、「渤海は昔の高句麗である(渤海郡者 舊 高麗國也)」(『続日本紀』神亀4年9月29日条)は、事実明白に認識しており、 渤海高句麗あたかも同じ国のように混用している記録非常に多い。 — 서길수、발해는 고구려를 이어받았다 これは第二次世界大戦以前白鳥庫吉主張したのが初見であるが、白鳥庫吉はこれを渤海王高句麗人である根拠としている(ただし赤羽目匡由は、「渤海王高句麗継承した国の王である事実を、『高麗国王』自称から読み取るのは、白鳥氏王族及び支配階級高句麗であった事実読み取るのと同様に決め手に欠く。政治的意図で『高麗国王』を自称したとみることも十分に可能だからである」と述べている)。また中国東北部満州)で興起した民族国家は、後の金に至るまで(函普参照起源王権正統性夫余高句麗から抽出したが、これは政治的に高句麗継承標榜することにより、対外的な政治的優位性獲得する意図があり、高句麗継承標榜そのまま単純に血統的継承連結することはできないという指摘もある。 この『続日本紀』記録されている大武芸日本送った国書に「高麗の古の土地回復し夫余習俗持っている」とあることや渤海使高麗使と表記してあること、大欽茂が自らを高麗国王と自称するなど高句麗継承国であることを日本標榜していたことを根拠に、一部渤海高句麗忌避症にかかった唐との摩擦防止するために対外的な国号であって対内的な国号高麗だったという主張があるが、『続日本紀』にでてくる「渤海路」「渤海使」などの用語は隠蔽しており、渤海王日本送った国書に「高麗」「高麗使」「高麗国王」とあることをもってして渤海高句麗関係性渤海帰属問題極度に単純化しているという批判受けている。 朴時亨は、「天孫」の語から、渤海王高句麗さらには高句麗王室の血統直接継承していると主張しており、「高句麗始祖高朱蒙の父が天帝の子解慕漱であり、母が河伯の娘柳花夫人である、ということにもとづくのはいうまでもない」「(渤海王が)たんに高句麗人であるばかりでなく、高句麗王室の血統直接継承した家系であることになる」と述べている。これについて石井正敏は、「直ち高句麗王室の血統を引く者とする点は如何であろうか」と評しており、赤羽目匡由は「朴時亨氏のように『天孫』の語より渤海王高句麗王室の血統を継ぐとするのは妥当ではないと思う」と評している。 卞麟錫(朝鮮語: 변인석、英語: Pyun, In-seok、亜洲大学)は、高句麗旧居復したという対外表明各地散乱していた高句麗人や靺鞨人を収集するうえでの政策であると評価でき、それらの故国である高句麗旧居復したという高句麗継承標榜求心力となり、この表明旗印のもとで営州散乱していた高句麗人や靺鞨人を収集し、さらに、高句麗旧居復し、その地の主権歴史・文化風俗を守ることこそが執政目標とされ、これは特に大祚栄大武芸大欽茂三代の重要政策であり、領土拡大し国土開拓する過程多数民族吸収してきたため、高句麗継承標榜実践的な意味を持つとしている。 李鍾旭朝鮮語: 이종욱、西江大学)は、「渤海から唐へ送った国書には、彼らの国号が『靺鞨』と自称していたことが『新唐書』記録されている」「渤海王日本使臣派遣した際、高句麗王自称したのは事実ですが、日本史書には『渤海』という用語は、より多く使用されている。初め渤海人が国を建国した時、国名を『靺鞨』とした。713年に唐から『靺鞨』の王に『渤海郡王』という称号与えられ渤海という国名使用します。もし大祚栄高句麗人なら、何故『靺鞨』を名乗ったのでしょうか。靺鞨高句麗人より身分はるかに劣る種族です」「渤海には高句麗人がいましが、高句麗人が渤海主流勢力とはみていません。高句麗滅亡後、唐は20万人高句麗人を連行しました。新羅高句麗7000人を捕らえました。高句麗王王子貴族など中心勢力はすべて捕らえられました。残存し高句麗人が渤海の上層部に編入されたとしても、渤海王多く支配階級靺鞨人だったはずです」と述べている。 金香は、「天子」の称号高句麗だけのものではないこと、帝王を「天孫」とする表現中原にも高句麗渤海にもみられず、「天孫」はただ星の名を表すに過ぎないこと、ここにみえる天孫」は渤海自称ではなく日本改作であることなどを挙げて、「天孫」の語は渤海高句麗継承意識とは関係ないとする。 王健群(吉林省文物考古研究所)は、「天孫」とは「天子」より一段格を落として僭越避けたものとみなし、これ自体が「天子」である朱蒙必然的に関係がないことを証明していると指摘している(『好太王碑』には「出自北夫余天帝之子。」とある)。 国忱(黒竜江省文物考古研究所)と魏国忠(黒竜江省社会科学院歴史研究所)は、天孫思想高句麗だけのものではないことを挙げて、ここでの「天孫」をいずれも高句麗始祖朱蒙天帝出自説とは必ずしも関連けられないとする。 崔紹熹(遼寧師範大学)は、大欽茂高麗国自称は、東方拓彊の時期にあたり東京龍原府一帯依然として強い勢力有していた高句麗勢力を、征服統治するのに有利であったためとし、国内の一地域高句麗支配という国内的意味があったとしている。 王健群(吉林省文物考古研究所)は、「復高麗舊居、有扶餘遺俗。」を「高句麗故地領有し夫余文化具有した」と解釈するのは正しいが、「大氏は高句麗人である」と主張しているわけではなく渤海高句麗継承国である理由説明もない。「高麗國大欽茂言。」は、楊承慶が口奏大欽茂を「高麗國王」と称した過ぎず具体的な論拠示していない。さらに『続日本紀』は、楊承慶を天平宝字二年九月には「渤海大使」とし、同年十二月壬戌にも「渤海使」としているが、七日後の天平宝字三年元日に突然「高麗蕃客」と改称しており、同一人物である楊承慶を「渤海大使」「渤海使」「高麗蕃客」と異表記していることは、史官渤海高句麗混同したことによる技術的混乱であり、それらは渤海自ら高句麗自称しているのではない。「高麗國大欽茂言。」の一節は、国書ではなく渤海使による口奏であり、国書口奏『続日本紀』では厳格に区別されている。天平勝宝五年五月に慕施蒙が孝謙天皇拝謁した際は「渤海王日本照臨聖天皇朝。」と口奏し、楊承慶が口奏した「高麗國大欽茂言。」も慕施蒙が口奏した「渤海王言」もともに渤海使口奏したのであり、大欽茂自称したのではない。「高麗國大欽茂言。」と口奏した楊承慶より先に来朝した慕施蒙は大欽茂を「渤海王言」と口奏しており、もともと大欽茂は「渤海王」と称していたと解釈するのが妥当であり、一介使臣国王言葉むやみに修正するはずがなく、もともと楊承慶は慕施蒙と同様に大欽茂を「渤海王」と口奏し、「高麗國王」とは口奏ていない蓋然性高く同一人物である楊承慶を「渤海大使」「渤海使」「高麗蕃客」と異表記したことと同様に史官渤海高句麗混同したことによる技術的混乱であると主張している。 徐徳源(遼寧大学)は、高麗国自称は、唐朝廷の控制脱し独立国家となることを実現するための外交的手段とし、独立国としての王権強化という国内的意味があったとしている。さらに、渤海王が「天孫」号を用いたことを、高句麗継承意識とは関係がないとしつつ、唐の政権下では渤海日本とは対等な自立国であることから、日本対等地位求めようしたものとしている。 魏国忠(黒竜江省社会科学院歴史研究所)、郭素美(黒竜江省社会科学院歴史研究所)、魏建華黒竜江省社会科学院歴史研究所)は、初め日本渤海朝貢要求した際に『高麗旧記』を引き合い出しており、その後天皇渤海王宛てた国書には「高氏継緒、毎慕化而相尋、大家復基、亦占風而靡絶。」「昔高麗全盛時。其王高武。祖宗奕世。介居瀛表。親如兄弟。義若君臣。帆海山。朝貢相續。逮乎季歳。高氏淪亡。自尓以來音問寂絶。爰洎神龜四年。王之先考左金吾大將軍渤海郡王遣使來朝。始修職貢。」とあり、日本にとって高句麗とは古の朝貢国属国であるため、日本渤海臣従させ、日本渤海属国にして朝貢させるため、渤海高句麗継承国であるというデマ一方的に仕組んで渤海を「高麗或いは高句麗」、渤海王を「高麗国王」、その使者を「高麗大使」と呼び渤海派遣され日本使節や船は「遣高麗使」「送高麗人使」「遣高麗国船」と強引に呼んだが、これに対して渤海は「高麗」という名称に抵抗反発したため、両国間で長期にわたる交渉おこなわれ所謂高麗問題をめぐり争ったが、結局日本事実直面して敗北認めざるをえず、最終的に渤海を「高麗」と称することをあきらめた主張している。 鈴木靖民は、『続日本紀』渤海関連記事に、渤海郡は「旧の高麗国なり」とあり、渤海王の啓に「高麗旧居復す」とあり、平城京出土木簡遣渤海使を「遣高麗使」と記すなど、8世紀日本支配層は、渤海高句麗継承国位置付けるため、高麗号することがあり、日本の対渤海外交新羅とともに渤海朝貢要求するものであったが、渤海は「高麗」と自称することで、対日本交渉の歴史根拠として高句麗後継意識示しつつ、渤海使国交続けるためにそれに合わせていた、と述べている。 堀敏一は、「高麗国王」が実際は「渤海王」を指し、何故「高麗国王」と記されたかについて明快な指摘をおこなっている。日本渤海高句麗後身として、日本臣従するよう要求する国書天平勝宝五年と宝亀三年送ったが、この要求前後一貫しているわけではなく高麗称号おこなわれた時期その間含まれ渤海高麗称するのは天平宝字二年から天平宝字六年までが盛んで、以後渤海語句用い高麗語句散発的に残っているに過ぎず高麗呼称盛行した時期藤原仲麻呂執政期にあたる。それは、新羅征討計画練られ時期重なり渤海友好関係もちたかった藤原仲麻呂渤海対す強硬姿勢改め新羅滅ぼされ新羅復讐する国の名としてか、かつて高句麗とは同盟関係にあったという誤記憶からか、渤海に対して高麗の名を用いた。そして、藤原仲麻呂失脚後最初宝亀三年国書から、再び渤海対す強硬姿勢が続くことになる。 いずれにせよ第二次世界大戦後石井正敏により、渤海から日本贈られ第一回国書分析通して渤海王自称高麗国王」がかつての附庸国高句麗位置づけようとする日本対外政策要求迎合したものであるとする説が唱えられ石井説を支持する研究者古畑徹赤羽目匡由酒寄雅志浜田久美子姜成山浜田耕策河添房江菅澤庸子石上英一廣瀬憲雄平野卓治森公章田島公河内春人河合敦など)が、日本史料の解釈恣意性批判しており、日本学界から問題視されている。 この石井に対して韓国政府東北アジア歴史財団林相先(朝鮮語: 임상선)研究員は、「日本記録高麗という語が現れる原因について日本側の学者対日外交のための一時的な用語と解釈するまた、渤海高句麗後継国家であるという事実を否定するための方便として、中国側学者はこの史料虚構性を強調することもある。しかし、日本人当時外交策略のために史料歪曲したもの、と簡単に片付けてしまうことはできない渤海727年日本始めて使節送ったときから、渤海は『高句麗故地回復した。』と称したが、そうした高句麗継承意識がこの時期になって本格的に標榜され始めたとみなければならない渤海高句麗継承意識は、単に政治的次元ではなく過去強大であった高句麗継承したという自尊心根ざしたものであった771年日本送った国書自身天孫称し自身を舅の国、日本を甥の国と規定しようとしたことは、このような事実をはっきりと示す。こうした継承意識文王代に実施され一連の改革政策により、国力大きく伸長したことでさらに強化されたのであってついには文王後期高麗国標榜したものとおもわれる」と開き直っている。一方李孝珩(朝鮮語: 이효형、釜山大学)は「渤海過去強国だった高句麗後身という立場で『高麗』という国号自称し日本過去朝貢国だった『高句麗』を渤海継承した認識したのである」「そして渤海過去強国だった高句麗後身という立場で『高麗』という国号自称し日本渤海過去朝貢国であった高句麗継承した国であると認識したのである日本渤海との交流通じて受けた影響力や、当時日本必要性究明したという点は高く評価できる」と述べている。

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