民族的出自
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「ルーシー・ブラックマンさん事件」の記事における「民族的出自」の解説
犯人は21歳まで韓国籍だったが、21歳のときに日本国籍を取得した。有罪判決を受けたのが民族的な被差別マイノリティだったことについて、『黒い迷宮──ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実』の著者リチャード・ロイド・パリーは不用意に出自と犯罪を結びつけることは「人種差別主義者と同じ」だと警告した上で、「日本のニュース機関というのは、どうも在日外国人などの出自の問題になると、非常に神経質になる部分もある」と指摘し、「在日韓国人であったことと、事件の犯人であるということは、すべて並列な事実の中の一つであって、その事実を読者に知らせるために、それぞれ述べることに関しては何の問題もありません」という考え方を示した。パリーは「ただ、彼が日本という国で生まれ育った人間であることを考えると、その意味で日本にも何らかの原因はあるのではないか」とも述べ、該当事件の捜査に関する日本警察の無能さとともに、犯人の出自に関する報道状況に関して「日本社会にはタブーがあるとも気がついた」とコメントした。逮捕後、民族的出自を報じた。 『Salon.com』のLaura Millerによれば、犯人が逮捕後も写真撮影を拒んだことなどについて、「民族的出自がコリアンだから反抗的行動をしているのだと日本人は非難した」("The Japanese blamed ... recalcitrant behavior on his Korean ethnicity")。
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民族的出自
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プラナカンの大部分は福建出身の中国人を先祖に持つが、潮州人や広東人の子孫も少なくない(※これらはすべて中国大陸南東部の湾岸地域にあたる)。また、ババ・ニョニャも中華系民族グループの一種であり、マラッカやペナン、インドネシアなどに住む中華系と原住民との混血集団を指す。現在とは異なり、中華系の交易商がマレー半島(あるいはスマトラ島やジャワ島)に住む現地人(マレー系)を妻(あるいは現地妻)として娶るのは決してめずらしいことではなかったため、結果としてババ・ニョニャは双方の文化的特徴を混ざり合ったかたちで受け継ぐこととなった。 19~20世紀の記録によれば、プラナカンの男性は、地元の同じ民族グループ(プラナカン系)の中から配偶者を選ぶ習慣があったとされる。また、中国本土から女性を呼び寄せて妻とすることもなければ、プラナカンの女性が配偶者選びに本土に赴くこともなかったという。ただし、一部の文献によれば、プラナカンという民族グループが成立して間もない時期は、現地人と婚姻関係を結ぶこともあったとしている。実際、鄭和(※中国雲南出身のムスリムで、大船団を率いて世界の海を航海した明代の武将)がマラッカへ向かう際に引き連れていた雲南出身の船員のうち、ブキット・チナ(「中国人の丘」を意味するマラッカ地方の町)に定住した一部がムスリム(イスラム教徒)であった、という事実がある。確かに当時のマレー半島周辺はすでにイスラム化していたため、現地において信徒同士が結婚していたとしても不思議ではない。 だが、この説に対して物的証拠の欠如を指摘する研究者も存在し、むしろプラカナンに混血(中華系文化の放棄)はほとんど進んでいないと主張する。異種族婚説を退ける注目すべき事例として、インドネシアのタンゲランに住むプラナカン系コミュニティ(チナ・ブンテン‐「中国砦」と呼ばれる)が挙げられよう。この民族グループに含まれる人々は、外見的特徴こそマレー系に近いものの、プラナカンの伝統を忠実に守っており、その大半が仏教徒である(※異民族婚説が正しければ、ムスリムでなければ矛盾する)。こうしたことから、プラナカンの中にはマレー系と混血が進んだ集団をプラナカン・ババと呼び、混血がまったく進んでいない自らの集団と区別する人々がいる。
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民族的出自
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ミマール・スィナンの民族的出自が議論になる場合がある。エスノセントリズムやナショナリズムが絡んで、難しい問題になっている。 1935年にトルコの研究者グループにより、スィナン廟からスィナンの遺骸が掘り出された。当時は人種の優劣を云々する科学が広汎に支持されており、トルコの研究者グループは、「スィナンの頭蓋骨を測定したところ、彼は確かにトルコ人であることが証明された」と喧伝された。 アルメニアを包含していた頃のソ連の学者などは、アルメニア人説を唱えていた。西側のイスラーム研究者に多い説はカッパドキア人(英語版)(カッパドキアのギリシア系住民)説である。その他に、アルバニア人説もある。「キリスト教徒のトルコ人」とする説もある。『ブリタニカ百科事典』はスィナンがアルメニア人の母とギリシア人の父を持つとした。 アルメニア人説の根拠は、セリム2世がヒジュラ暦981年ラマダーン月7日(西暦1573年12月30日ごろ)に発した勅命にある。この勅命は、スィナンの親族をカイセリのアルメニア人コミュニティすべてに言い渡したキプロス島への追放から免除することを、スィナンの求めにより許すとしたものである。この勅命についてゴドフリー・グッドウィンは「1571年のオスマン帝国によるキプロス征服後、セリム2世が島の人口を回復させるためにエヤーレティ・カラマーン(英語版)からルーム人ミッレトに属する家族を移住させることを定めたところ、スィナンは一族を代表して裁定を求め、御前会議から一族の追放を免除する2通の勅命を獲得した」と主張している。ハーバート・ミュラーによると、スィナンは「以前はアルメニア人であったようである」という。タフツ大学のルーシー・デル・マヌエリアンは「帝国の公文書やその他の文字資料に基づくと、彼はアルメニア人とみなせるであろう」という。 カッパドキア人説を支持する学者たちは、スィナンの父親の名前がギリシア人にはありふれた名前のクリストス(Χρήστος)であることから、父親は石工か大工であったことがわかるという。 アルバニア人説は、ムガル帝国皇帝バーブルが地元インドの建築と設計にまったく満足せず「オスマン帝国の棟梁、アルバニアの天才、スィナンの弟子の幾人かを、彼の建て方で建てさせるために」インドに招待したという記述に基づく(イギリスの学者パーシー・ブラウンとインドの学者ヴィディヤ・ダル・マハジャンなど)。
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