民族理論:文化的自治論
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「オーストリア・マルクス主義」の記事における「民族理論:文化的自治論」の解説
19世紀末、オーストリア社会民主党は民族別に編成された党の連合組織となっており、その内部ではドイツ人社会主義者とチェコ人社会主義者との対立が深刻化していた。社会民主党は1899年のブリュン綱領で民族問題についての基本的見解を出したが、民族運動との妥協を経て、それは当初構想されていた「文化的自治」論ではなく、立法・行政単位としての自治的地域の上に「民主的な諸民族の連邦」を構想する内容となった。 このブリュン綱領をさらに理論的に深化させる仕事を担ったのが、レンナーとバウアーであった。レンナーは『国家と国民』(1899年)・『国家をめぐるオーストリア諸国民の闘争』(1902年)、バウアーは『民族問題と社会民主主義』(1907年)・『バルカン戦争とドイツの世界政策』(1912年)などの著書においてこうした理論活動を展開した。彼らはブリュン綱領が示した属地的組織による民族自治というプランを基本的には承認しつつも、多民族のモザイク的混住が進んだ二重帝国においては、立法・行政上の自治を担う属地的組織のみでは少数民族の問題を解決するには不充分と考え、属人的組織による文化的自治というアイデアを導入した。また同時に、この地域の社会主義革命にとってはドナウ経済圏が一体に保たれた方が有利であるという観点から、現在の二重帝国の枠組みを当面維持すべきであるとした。具体的には、政治・経済領域に関わる属地的民族別組織の「民族的地域」と文化的領域に関わる属人的民族組織の「民族共同体」(個人の申告により作成される民族台帳に基づき編成)を重ね合わせる「二次元の連邦」が提唱された。 ただし、これより先についてはレンナー・バウアー両者の理論には大きな隔たりが存在した。法学者であるレンナーは、複雑な民族問題を国制と法において理論化しようとした。そして帝国内諸民族間の関係を法制度的に調整することが、民族主義運動を背景とした政治的権力闘争を終結に導き、また帝国の多民族連邦組織への改組が将来の社会主義社会におけるモデルとなると展望したのである。これに対してバウアーは、社会学的視点から、より広い民族問題の理論的・歴史的分析に向かい民族の本質に迫ろうとした。そして二重帝国やバルカン半島における「歴史なき民の覚醒」を分析し、民族の解放が不可避の政治的・理論的課題であると考えた。さらに現在の資本主義社会では支配階級であるブルジョワ階級が民族文化を占有しており、社会主義社会による旧来の資本主義社会の解体を通じて、新たに諸民族の「文化共同体」が形成されうると考え階級闘争を重視する態度をとった。したがってレンナーは現実のオーストリア=ハンガリー二重帝国を地理的・経済的にみて必然的に一体のものとみなしたのに対し、バウアーは多民族国家オーストリアの存在は、階級闘争を阻害する民族対立を発生させない限りにおいてのみ是認される(つまり多民族国家は運動の目的ではなく運動の与件である)と考えたのである。第一次大戦期に至って、「中欧論」に影響されたレンナーが帝国の維持に固執する一方で、バウアーが従来の立場を修正して民族自決を許容し、二重帝国の解体を展望するところまで両者の懸隔は拡がった。 以上のようなオーストリア・マルクス主義派(およびオーストリア社会民主党)の民族理論の影響を特に強く受けたのが、同時期にロシア(およびその支配下にあったポーランド・リトアニア)で活動しロシア社会民主労働党内の有力フラクションであったユダヤ人社会主義団体「ブンド」であった。ブンドは1901年の第4回大会において「ユダヤ人の民族的独自性」「諸民族の非領域的連邦国家構想」を採択し、翌1903年、ロシア社会民主労働党の第2回大会において党組織の連邦化を主張し、多数派と衝突して大会をボイコットする事態になった。ブンドの主張はレーニンらによって厳しく批判され、ブンドに影響を与えたバウアーらオーストリア・マルクス主義派の民族理論も民族自決を否定する「文化的民族自治論」として、ルクセンブルクの民族理論ともどもレーニンやスターリンの批判対象となった。またバウアーが言語や地域の共通性を必ずしも民族の本質として重視せず、文化的要素に重きを置いた(そして属人的な文化的自治の根拠とした)ことは、言語を民族の本質とするカウツキーからの批判を受けた。 オーストリア・マルクス主義派の民族理論の同時代での影響については見解が分かれる。一つは、ブリュン綱領やこの理論の発展にも関わらず、オーストリア社会民主党からのチェコ人組織(チェコ社会民主党)の分離独立(1911年)を回避できなかった点をもって、同党内部においてもこの理論の影響は限定的で、ドイツ系党員の民族主義的なドイツ人優位論や偏狭な「国際主義」(チェコ人など少数民族の運動への譲歩を拒むものであった)に対抗することができなかったというものである。もう一つは、社会民主党内で直接に帝国の解体を主張する意見がほとんどなく、多くの民族組織は基本的には帝国の枠組みの維持を望んでいたという点をもって、(さらに多民族のモザイク的状況を考慮すれば)文化的民族自治論は当時の二重帝国において十分に現実的な理論であったというものである。
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