民族理論:文化的自治論とは? わかりやすく解説

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民族理論:文化的自治論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/29 17:10 UTC 版)

オーストリア・マルクス主義」の記事における「民族理論:文化的自治論」の解説

19世紀末オーストリア社会民主党民族別編成された党の連合組織となっており、その内部ではドイツ人社会主義者チェコ人社会主義者との対立深刻化していた。社会民主党1899年ブリュン綱領民族問題についての基本的見解出したが、民族運動との妥協経て、それは当初構想されていた「文化的自治」論ではなく立法行政単位としての自治的地域の上に「民主的な諸民族連邦」を構想する内容となった。 このブリュン綱領をさらに理論的に深化させる仕事担ったのが、レンナーバウアーであったレンナーは『国家と国民』(1899年)・『国家をめぐるオーストリア諸国民の闘争』(1902年)、バウアーは『民族問題社会民主主義』(1907年)・『バルカン戦争ドイツ世界政策』(1912年)などの著書においてこうした理論活動展開した。彼らはブリュン綱領示した属地組織による民族自治というプラン基本的に承認しつつも、多民族モザイク的混住が進んだ二重帝国においては立法行政上の自治を担う属地組織のみでは少数民族問題解決するには不充分考え属人的組織による文化的自治というアイデア導入した。また同時に、この地域社会主義革命にとってはドナウ経済圏一体に保たれた方が有利であるという観点から、現在の二重帝国枠組み当面維持すべきであるとした。具体的には、政治・経済領域関わる属地民族別組織の「民族的地域」と文化的領域関わる属人的民族組織の「民族共同体」(個人申告により作成される民族台帳に基づき編成)を重ね合わせる二次元連邦」が提唱された。 ただし、これより先についてはレンナー・バウアー両者理論には大きな隔たり存在した法学者であるレンナーは、複雑な民族問題国制と法において理論化ようとした。そして帝国諸民族間の関係を法制度的に調整することが、民族主義運動背景とした政治的権力闘争終結導き、また帝国の多民族連邦組織への改組将来社会主義社会におけるモデルとなると展望したのである。これに対してバウアーは、社会学的視点から、より広い民族問題理論的歴史的分析向かい民族本質迫ろうとした。そして二重帝国バルカン半島における「歴史なき民の覚醒」を分析し民族解放不可避政治的理論的課題であると考えた。さらに現在の資本主義社会では支配階級であるブルジョワ階級民族文化占有しており、社会主義社会による旧来の資本主義社会解体通じて新たに諸民族の「文化共同体」が形成されうると考え階級闘争重視する態度をとった。したがってレンナー現実オーストリア=ハンガリー二重帝国地理的経済的にみて必然的に一体のものとみなしたのに対しバウアー多民族国家オーストリア存在は、階級闘争阻害する民族対立発生させない限りにおいてのみ是認される(つまり多民族国家運動の目的ではなく運動の与件である)と考えたのである第一次大戦期至って、「中欧論」に影響されレンナー帝国維持固執する一方でバウアー従来立場修正して民族自決許容し二重帝国解体展望するところまで両者懸隔は拡がった。 以上のようなオーストリア・マルクス主義派(およびオーストリア社会民主党)の民族理論影響を特に強く受けたのが、同時期にロシア(およびその支配下にあったポーランド・リトアニア)で活動しロシア社会民主労働党内の有力フラクションであったユダヤ人社会主義団体ブンドであったブンド1901年第4回大会において「ユダヤ人民族的独自性」「諸民族の非領域連邦国家構想」を採択し、翌1903年ロシア社会民主労働党第2回大会において党組織連邦化主張し多数派衝突して大会ボイコットする事態になったブンド主張レーニンらによって厳しく批判されブンド影響与えたバウアーオーストリア・マルクス主義派の民族理論民族自決否定する文化的民族自治論」として、ルクセンブルク民族理論ともどもレーニンスターリン批判対象となった。またバウアー言語地域共通性を必ずしも民族本質として重視せず、文化的要素重きを置いた(そして属人的文化的自治根拠とした)ことは、言語民族本質とするカウツキーからの批判受けたオーストリア・マルクス主義派の民族理論同時代での影響について見解分かれる一つは、ブリュン綱領やこの理論の発展にも関わらずオーストリア社会民主党からのチェコ人組織チェコ社会民主党)の分離独立1911年)を回避できなかった点をもって、同党内部においてもこの理論影響限定的で、ドイツ系党員民族主義的ドイツ人優位論や偏狭な国際主義」(チェコ人など少数民族運動への譲歩拒むものであった)に対抗することができなかったというものであるもう一つは、社会民主党内で直接帝国の解体主張する意見がほとんどなく、多く民族組織基本的に帝国枠組み維持望んでいたという点をもって、(さらに多民族モザイク状況考慮すれば)文化的民族自治論は当時二重帝国において十分に現実的な理論であったというものである

※この「民族理論:文化的自治論」の解説は、「オーストリア・マルクス主義」の解説の一部です。
「民族理論:文化的自治論」を含む「オーストリア・マルクス主義」の記事については、「オーストリア・マルクス主義」の概要を参照ください。

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