帝国の解体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 04:51 UTC 版)
「イギリス領インド帝国」の記事における「帝国の解体」の解説
ジンナーは閉塞した状況を打開するために、8月16日に直接行動の日(英語版)を定めた。ジンナーは、直接行動の日において、ムスリム側は、「どんな様式、形態においても直接的な暴力行為に訴えるための日であってはならない」と考えていたが、実際に生み出されたのは、カルカッタ市内では4000人を超える市民が殺害され、ビハール州では約7000人のムスリムが殺害され、ベンガルのノアカリ地方では数千人のヒンドゥーが殺害されるという悲劇 のみであった。ノアカリ地方にいたっては、ガンディーが直接仲裁に行って、初めて、悲劇の収拾がなされた。 最後の副王として、1947年、ルイス・マウントバッテンが就任した。その前年、国民会議主導による中間政府の設立が宣告された。パンジャーブ州の東西分割問題、東ベンガル、バローチスターン、シンド、北西辺境州の各州がインドと新設されるパキスタンのどちらに帰属するかで議論が展開された が、6月3日、2つに分割した形での独立が正式に発表された。藩王国のほとんどは、内務大臣ヴァッラブバーイー・パテール(サルダール・パテール)の手腕により、インドへ帰属することとなった。 1947年8月15日、デリーの赤い城におけるネルーの独立宣言をもって、インドは独立を達成した。また、同日、パキスタンも独立を宣言し(インド・パキスタン分離独立)、インド帝国は解体された。インドはしばらくの間イギリス連邦内の立憲君主制国家であったが、1950年に共和制が採択され、総督ポストも廃止された。
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