帝国の興隆と没落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 16:26 UTC 版)
「テッサロニキ帝国」の記事における「帝国の興隆と没落」の解説
テッサロニキは、ビザンツ帝国においてコンスタンティノープルに次ぐ第二の都市とみなされていた。ここを制圧したテオドロス1世コムネノス・ドゥーカスは、正統な皇統を主張していたニカイア帝国に取って代わろうと考え、オフリド大司教デメトリオス・コマテノスの手によりテッサロニキで皇帝として戴冠した。その正確な時期は分かっておらず、1225年とする説と1227/8年とする説がある。ビザンツ皇帝への野望をあらわにしたテオドロス1世コムネノス・ドゥーカスは、本格的にコンスタンティノープル奪回を目指し始めた。この時点で彼に対抗し得る勢力は、ニカイア皇帝ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスと、第二次ブルガリア帝国のツァーリであるイヴァン・アセン2世しかいなかった。1225年にニカイア帝国はラテン人からハドリアノポリスを奪回したが、テオドロス1世コムネノス・ドゥーカスはすぐさまトラキアに兵を進め、ニカイア帝国にヨーロッパ大陸の領土を明け渡させた。もはや彼のコンスタンティノープル攻撃を妨げるものはなくなったはずだが、テオドロス1世コムネノス・ドゥーカスは何らかの理由で攻撃を遅らせた。この間にニカイア帝国は体勢を立て直し、ラテン帝国と手を結んだ。さらにテッサロニキ帝国と同名を結んでいたイヴァン・アセン2世も、ラテン帝国に接近して婚姻関係を結んだ。1230年、ようやくテオドロス1世コムネノス・ドゥーカスはコンスタンティノープルへ進軍したが、その途上で突如ブルガリアに矛先を変え北上した。クロコトニッツァの戦いでテッサロニキ帝国軍はブルガリア帝国軍に壊滅的敗北を喫し、テオドロス1世コムネノス・ドゥーカスは捕虜となり、後に目を潰された。 この敗北によりテッサロニキ帝国は急速に力を失い、内政を立て直すこともできず、いったん広がった領土も周辺諸国に蚕食された。ブルガリアはわずかの間にトラキア、マケドニアの大部分、アルバニアを征服し、バルカン半島の最大勢力となった。テオドロス1世の跡を継いだ弟のマヌエル・コムネノス・ドゥーカスは、辛うじてテッサロニキ、テッサリア、エピロスを保持したが、ブルガリアの属国となることを受け入れなければならなかった。さらにある程度の軍事行動の自由を確保するため、マヌエル・コムネノス・ドゥーカスは兄の仇敵ニカイア帝国に対しても、ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスと、ニカイアに逃れていたコンスタンディヌーポリ総主教の優位性を認める譲歩をした。さらに、エピロスではミカエル1世コムネノス・ドゥーカスの庶子ミカエル(2世)コムネノス・ドゥーカス(アンゲロス・コムネノス)が支配を確立し、テッサロニキ帝国から独立するのを防げなかった。ミカエル2世コムネノス・ドゥーカスはクロコトニッツァの戦い以後しばらく放浪した後、エピロスに帰ってきたのであった。最終的にマヌエル・コムネノス・ドゥーカスは既成事実化したミカエル2世コムネノス・ドゥーカスのエピロス支配を受け入れざるを得なかった。その証として、彼はミカエル2世コムネノス・ドゥーカスに専制侯の称号を与えた。マヌエル・コムネノス・ドゥーカスの支配は、初期からすでに名目的なものになっていた。1236年から1237年にかけて、ミカエル2世コムネノス・ドゥーカスは独立君主のように軍事行動を起こし、ケルキラ島を征服し、自らの名のもとに特許状を発行した。
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