マヌエル・コムネノス・ドゥーカスとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 実業家 > 貴族 > ドゥーカス家 > マヌエル・コムネノス・ドゥーカスの意味・解説 

マヌエル・コムネノス・ドゥーカス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/02 08:39 UTC 版)

マヌエル・コムネノス・ドゥーカス
Μανουήλ Κομνηνός Δούκας
エピロス・テッサロニキ専制公
テッサロニキ専制公マヌエルのコイン
在位 1230年1237年

出生 1187年頃
死去 1241年
配偶者 エフィミヤ・ネマニッチ
  マーリア
家名 アンゲロス家
王朝 コムネノス・ドゥーカス朝
父親 ヨハネス・アンゲロス・ドゥーカス
宗教 キリスト教正教会
テンプレートを表示

マヌエル・コムネノス・ドゥーカスΜανουήλ Κομνηνός Δούκας, Manouel Komnenos Doukas, 1187年頃 - 1241年)は、エピロス・テッサロニキ専制公(在位:1230年 - 1237年)。中世ギリシア語表記ではマヌイル・コムニノス・ドゥカス。テッサロニキ帝国皇帝テオドロス1世コムネノス・ドゥーカスの弟。父系ではアンゲロス(Άγγελος, Angelos)であるが実際にはその名前を使用していない。

生涯

1230年に兄テオドロスがクロコトニツァの戦いで捕虜になった後、統治職を代行する。しかしテオドロスは1237年ブルガリア帝国皇帝イヴァン・アセン2世によって釈放され帰国すると、マヌエルを市から追放し長子ヨハネスをその支配に据えてしまう。マヌエルはやむなくテッサリアに逃れてそこに支配権を確立する。これによってかつての「テッサロニキ帝国」はテッサロニキ(ヨハネス)、テッサリア(マヌエル)、エピロス(ミカエル2世)の三国に分割された事になる。マヌエルは1241年頃に死去し、その遺領はミカエル2世が併合した。

マヌエルの最初の妻はセルビア君主ステファン・ネマニャの姉妹。二番目の妻はイヴァン・アセン2世の娘(庶子)。共に子供は生まれなかった。

先代
テオドロス・ドゥーカス
エピロス・テッサロニキ専制公
1230年1237年
次代
ヨハネス・ドゥーカス

脚注





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「マヌエル・コムネノス・ドゥーカス」の関連用語

マヌエル・コムネノス・ドゥーカスのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



マヌエル・コムネノス・ドゥーカスのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのマヌエル・コムネノス・ドゥーカス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS