帝国の版図拡大
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「コンラート2世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「帝国の版図拡大」の解説
ザクセン朝が推進したイタリア政策はザーリアー朝にも引き継がれた。1026年にはイタリア遠征を敢行して、同年3月23日にミラノでイタリア王の戴冠を受けた。さらに翌年の復活祭の日(3月26日)には、ローマのサン・ピエトロ大聖堂で、ローマ教皇ヨハネス19世から帝冠を受けて皇帝となった。この戴冠式には、東フランク(後のドイツ)・イタリアの諸侯だけでなく、当時広大な北海帝国を形成していたデンマーク王クヌーズ2世なども臨席していた。 1032年9月6日、ブルグント王ルドルフ3世が嗣子なく崩御し、コンラート2世は相続によってブルグント王位も手中に収め、1033年2月2日ペーターリンゲンで戴冠した。このことによって東フランク・イタリア・ブルグントという3国の王冠が一手に掌握された。この3国の領域が中世西欧におけるローマ帝国、後に神聖ローマ帝国と呼ばれる政体の範囲を規定する雛型となった。 1039年、ユトレヒトで崩御、自身が建設させたシュパイアー大聖堂に葬られた。息子のハインリヒ3世がその後継者となった。
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