帝国の混乱と権力の掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 03:19 UTC 版)
「ムラト4世」の記事における「帝国の混乱と権力の掌握」の解説
即位した時、内部では、かつてオスマン2世の殺害に反発してアバザ・メフメト・パシャがアナトリアで反乱を起こしていた。この反乱はブルサやアンカラにまで飛び火してしまい、結局1628年にアバザ・メフメト・パシャをボスニア州の知事にすることでこれを鎮圧した。東方ではサファヴィー朝と過去に締結したセラブ条約が破られてしまい、1623年にアッバース1世が侵攻してきており、翌年にはバグダードを奪われた。即位後はムラト4世は急速に教育を受け、治世前半は母后キョセムが実権を握っていた。皇帝の母親が実権を握ったのは、帝国史上初めてということではなかったが、キョセムは過去にないほどの膨大な権力を手にした。キョセムの垂簾聴政を退け、ムラトが実権を握る契機となったのは、1632年、大宰相らの処刑を求めて常備騎兵がイスタンブールで起こした騒擾である。これをイェニチェリ軍団の支持を取り付け鎮圧したムラトは、今こそ母の影響力を脱する奇貨だと考えた。以降のムラトは、自身の権力を確立すべく積極的な政策を打ち出すようになる。その一つが、社会の規律強化のため、宗教的厳格派と呼ばれるカドゥザーデ派の人々の力を借りることだった。 1625年の夏に始まったバランパシャの疫病は流行し、イスタンブールでは1日1000人が死んだという。1633年には、イスタンブールで火災が発生し、都市の五分の一がもえた。30時間続いた火災は、風が止まった後に消された。 この火災の原因としてタバコの燃えカスが挙げられ、タバコを吸うことは厳禁となった。タバコ禁止を徹底するために家の煙突すらも調べたといい、もしタバコを吸っているのが発覚した場合には手足を切り落とされ、そのまま斬首された。さらにはコーヒーを飲むのも禁止した。理由としては当時のカフェは政治の議論が頻繁にされており、カフェでイェニチェリや知識人、イスラム法学者らが反乱を企てるのを阻止するためと言われている。ムラトはタバコとコーヒーの禁止がしっかり守られているかを確認するために変装して市井をパトロールした。もしも規律が守られていない者を見つけたら、その場で捕らえて処刑するなどした。これらの政策はイスラム厳格派のカドゥザーデ派の支持があったからこそできたと思われ、カドゥザーデ派はウラマーであるカドゥザーデ・メフメト・エフェンディによって開かれた。彼らはクルアーンの教えを厳格に解釈し、そこから少しでも逸脱した行為を糾弾するなどした。さらにはカドゥザーデ派はモスクでの説教を通じて、一般大衆の心を掴み、腕の良い人気説教師は大きな影響力があり、ムラト4世は社会的規律を強化できかつ民衆の動員力をもつ説教師を利用することにした。 また、ムラトは短気な性格であり、1634年にブルサに向かう時には道路が整備されていなかったという理由でイズニクの知事を処刑した。このことをイスラム長老を2年もの間勤めていたアヒザーデ・ヒュセイン・エフェンディは批判した。これに激怒したムラトはアヒザーデ・ヒュセインをキプロスへ追放する処分を下した。しかし、ムラトは突如これを撤回し、追放処分から処刑へと決めた。結局アヒザーデ・ヒュセインはキプロスへ向かう船に乗ってる途中で絞殺された。1638年には宮廷の医師のエミール・チェレビーにアヘンを吸わせた後、毒殺するなどした。ムラトは身内に対しても厳しく、姉のゲヴヘルハン・スルタンの夫のカラ・ムスタファ・パシャ(第二次ウィーン包囲を主導したカラ・ムスタファ・パシャとは別人)を殺害した。
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