帝国の残光
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 23:14 UTC 版)
18世紀においてもフィンランドとの連合、「スウェーデン=フィンランド」は生き続けた。ただしこの時代、すでに東部カレリア、南部カレリアは喪失していた。 その後のスウェーデンは国王ではなく、貴族、宰相によって国政を牛耳られ、ヨーロッパの中の小国へと転落した(自由の時代)。 しかし北方の強国はこのまま黙って没落を受け入れていた訳ではなかった。18世紀後半にホルシュタイン=ゴットルプ王朝第2代のグスタフ3世はスウェーデンを復興させ、過去のバルト帝国の再興を目指した。 しかし既にロシア帝国がバルト海の覇者であり、この超大国と一戦を交えるのは国家の命運を賭す大博打であったため、スウェーデンの貴族は戦争に反対した。しかしいざ開戦してみると、スウェーデン軍は完全な勝利こそ得られなかったが、スヴェンスクスンドの海戦においてロシア海軍に完勝するなど、超大国ロシアの鼻を明かすことに成功した(第一次ロシア・スウェーデン戦争)。その後のスウェーデンはフランス革命に関与し、反革命十字軍を提唱するなど、再び北ヨーロッパの大国としての地位を取り戻したかに見えた。 だが突然のグスタフ3世の暗殺(1792年)により、大国再興への道は頓挫する。さらに1805年には第四次対仏大同盟が崩壊し、また1808年第二次ロシア・スウェーデン戦争が勃発。そして1809年には、最後に残ったフィンランドもロシアに奪われ、バルト帝国再興の夢は完全に潰え去った。その後ナポレオン戦争末期において、ベルナドッテ家のカール・ヨハンがスウェーデン王位継承者に迎え入れられ、その上でフィンランド奪回を目指す動きもあったものの、ロシアとの再同盟の結果、その目的がノルウェー獲得に取って代わられることとなった(1814年のキール条約及びウィーン会議でノルウェーを取得したものの、ほぼ対等の人的同君連合であり、1905年まで続くスウェーデン=ノルウェー連合王国を形成した)。 その後スウェーデンは保守化し、スカンディナヴィアの一体化を目指す様になる(汎スカンディナヴィア主義)。しかしこの汎スカンディナヴィア主義は、スウェーデン王オスカル1世によって大国主義の残滓として引き継がれた。19世紀半ばのクリミア戦争におけるフィンランド奪回の試みや、その後のデンマークを加えたカルマル同盟再興の目論見は、スウェーデンの汎スカンディナヴィア主義の昇華によるものであり、バルト海のみならず北ヨーロッパの覇権奪回を目指す最後の試みであった。最終的にこの主義と野心がスウェーデンの民主主義化とヨーロッパ列強の圧力の前に破綻したことによって、完全に終止符を打つこととなった。 なお、東インド会社、スウェーデン西インド会社が存在し(共に19世紀初頭に閉鎖)、またグスタフ3世の時代に僅かながら植民地を獲得するなど、北方においてはスウェーデンの国力はある程度は維持し続けていた。そして「自由の時代」に続く「ロココの時代」(グスタフ朝時代)は、それと重なる啓蒙時代としてスウェーデン文化の興隆の時代でもあった。
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