帝国の腐敗とは? わかりやすく解説

帝国の腐敗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 07:01 UTC 版)

ムラト3世」の記事における「帝国の腐敗」の解説

ソコルルの死後ムラトはソコルルのような強大な権力を持つ大宰相存在を望まなかった。彼の時代には10回以上大宰相交代した短期間ながらも大宰相任命しなかった時期もあったが、これは帝国史上異例のことだった。さらに自身中心に権力確立する政策打ち出す。それは、ハレム統括する黒人宦官長職創設されたこと、母のヌールバーヌーが、「ヴァリテ」(母后という意味)という称号得たことは宮廷ムラト中心とした党派の形成一躍買ったスルタン権威高めるため、バヤズィト2世上回る歴史書書かれたのも彼の時代である。 ムラト3世自身ハレム入り浸って快楽溺れたために、自身楽しみに乱費して、オスマン帝国財政をかえって悪化させ、帝国の衰退原因作り出してしまった。ムラト3世は、トプカプ宮殿の第2の庭に、自分ハレム建設させた。トプカプ宮殿内に正式にハレム建設されたのは、彼のになってからだった。また、12年間におよぶ戦争勝利したとはいえ、やはりその莫大な戦費財政悪化一因となってしまった。 やがてセルジューク・トルコ王族末裔称するシェムシ・パシャを寵愛し、その入れ知恵大金提供する者達に官職与えようになった強欲な皇帝公然と売官収賄する腐敗ぶりを見て、シェムシ・パシャは公然と「わが王朝滅ぼしたオスマン家今や報復することが出来るぞ。腐敗必ずや帝国滅亡させるであろうから」と揚言したという。1579年ソコルル・メフメト・パシャ暗殺されるとシェムシ・パシャは大宰相になった。しかし翌年シェムシ・パシャが亡くなるとララ・ムスタファ・パシャ大宰相になるがすぐ亡くなったため、コジャ・シナン・パシャが大宰相努めた。ただし、シナン・パシャも1582年解任されており、その後カニジェリ・シヤヴシュ・パシャを大宰相任命しており、大宰相頻繁に交代するうになるその後もオズデミルオウル・オスマン・パシャ、ハディム・メシフ・パシャと大宰相交代してるが1586年にはカニジェリ・シヤヴシュ・パシャが再び大宰相就任している。晩年にはイングランド女王エリザベス1世国使来訪している。 1595年50歳で崩御ムラトは妻のサフィエとの間にメフメト2人の娘がいた。しかし、母のヌール・バーヌは、もしものときのためにムラト一夫一妻制快く思わなかった。王位継承から5、6年後、ムラトは妹から新しい嫁をプレゼントされた。彼女ら性交試みたが、ムラト勃起不全だと判明した。母のヌール・バヌはサフィエと、その使用人非難した最終的に宮廷医師インポテンツの手術に成功したものの、副作用急激な性的欲求増加であった。彼が死去する時には彼に大勢の子供がおり、男子長男メフメト以外だけでも、19人もいた。跡を子のメフメト3世継いだ

※この「帝国の腐敗」の解説は、「ムラト3世」の解説の一部です。
「帝国の腐敗」を含む「ムラト3世」の記事については、「ムラト3世」の概要を参照ください。

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