ヨーロッパの躍進とアジア大帝国の弱体化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:41 UTC 版)
「18世紀」の記事における「ヨーロッパの躍進とアジア大帝国の弱体化」の解説
18世紀には、農業生産の飛躍的向上により人口の増加をもたらした農業革命に続き、世界初の工業化である産業革命が起こったことにより、イギリスの生産力が飛躍的に向上した。産業革命の原動力のひとつに大西洋の三角貿易(奴隷貿易)に支えられた砂糖や綿花のプランテーション、そしてそこでの労働力となった黒人奴隷の存在がある。重商主義によりヨーロッパ各国で激しい貿易競争がおこなわれた。オランダの自由貿易は衰え、イギリスとフランスが台頭し両国は、激しい植民地戦争を繰り広げた。一方、18世紀後半のヨーロッパでは、啓蒙主義思想が広がった。 アジアの大帝国の腐敗、弱体化が始まり、それに乗じて西欧諸国のアジア進出が始まった。インドでは、アウラングゼーブのもとムガル帝国が最大領土を実現したが、その死後における数次の継承戦争とマラーター王国を中心とするマラーター同盟の台頭より、19世紀には弱体化した。そして、デリー周辺をかろうじて支配する一勢力に転落し、各地に地方政権が割拠するようになり、イギリス、フランスの進出を許した。オスマン帝国は改革がおこなわれたが大きな成果はなく、腐敗と弱体化がいっそう進んだ。清は乾隆帝の治世で最盛期にあたり人口が増えたため華僑が登場した。内政面で充実し、経済力も増したが、18世紀後期には腐敗が進んだ。また、貿易を巡って西ヨーロッパ諸国と対立するようになっていった。
※この「ヨーロッパの躍進とアジア大帝国の弱体化」の解説は、「18世紀」の解説の一部です。
「ヨーロッパの躍進とアジア大帝国の弱体化」を含む「18世紀」の記事については、「18世紀」の概要を参照ください。
- ヨーロッパの躍進とアジア大帝国の弱体化のページへのリンク