ヨーロッパの荘園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 06:18 UTC 版)
ヨーロッパにおける荘園制(Manorialism or Seigneurialism)は、中世の西ヨーロッパ農村及び中央ヨーロッパの一部農村に見られた経済・社会構造を指す用語である。ヨーロッパ荘園制の特徴は、法的・経済的な権力が領主に集中していた点にある。領主の経済生活は、自らが保有する直営地からの収入と、支配下におく農奴からの義務的な貢納によって支えられていた。農奴からの貢納は、労役、生産物(現物)、又はまれに金銭(現金)という形態をとっていた。 ManorismやSeigneurialismの語は、それぞれ、農村において代々相続される伝統的な支配地域を表すmanors、seigneuries(日本語では荘園と訳される)に由来している。荘園領主の地位は、より上位の領主からの要求を請け負うことにより保証されていた(詳しくは封建制を参照のこと)。荘園領主は、公共法や地域慣習にのっとり裁判も行っていた。また、全ての荘園領主が在俗者だった訳ではなく、司教や修道院長が領主として貢納を伴う土地所有を行っていた例も見られる。 農村社会における全ての社会経済要素の基礎となったのは、土地所有の状況であった。荘園の登場に先立って、2つの土地システムが存在していた。より一般的だったのは、完全な所有権の下で土地を保有するシステム(1人の土地所有者の他にその土地の権利を有する者が皆無というシステム。英語でallodiumという。)であり、もう一つのシステムは、土地を条件付きで保有する形態である神への贈与(precaria)又は聖職禄(beneficium)の利用であった。 これら2つに加えて、カロリング朝の君主たちは、第3のシステムとして、荘園制に封建制を融合させたアプリシオ(aprisio)を創始した。アプリシオが最初に出現したのは、シャルルマーニュ(カール大帝)の南仏保有地であるセプティマニア地方である。当時、シャルルマーニュは、778年のサラゴサ遠征に失敗し、その際、退却軍についてきた西ゴート族の難民をどこかへ定住させてやる必要に追われていた。この問題は、皇帝直轄地である王領(fisc)のうち、未耕作で不毛な地帯を西ゴート族へ割り当てることで解決した。これがアプリシオの初現だとされている。確認されたもののうち、最も初期のアプリシオは、ナルボンヌ(Narbonne)に近いフォンジョクス(Fontjoncouse)で見つかっている。 西ヨーロッパ旧帝国内の一定の地域では、古代末期に別荘(villa)システムが確立し、中世世界へと継承された。
※この「ヨーロッパの荘園」の解説は、「荘園」の解説の一部です。
「ヨーロッパの荘園」を含む「荘園」の記事については、「荘園」の概要を参照ください。
- ヨーロッパの荘園のページへのリンク