日本における中国の荘園を巡る論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 06:18 UTC 版)
「荘園」の記事における「日本における中国の荘園を巡る論争」の解説
日本の学界では中国の荘園に対する理解(主に「世界史の基本原則」及び中世ヨーロッパの荘園との対比)について大きく分けると2説に分かれて論争が行われてきた。1つは周藤吉之・堀敏一らの説で均田制の崩壊で小農民による土地所有原則が崩壊して大土地所有が発生して地主と佃戸が形成され、宋代に入ると地主層が官僚となり佃戸を駆使して荘園を経営するようになった。佃戸は地主によって経済的な依存なくして生計が立てられない状況に置かれ、移転の自由を持たず土地に呪縛された一種の農奴制であったというものである。もう1つは宮崎市定らの説で均田制の実施を認めない立場から漢代から大土地所有者による荘園開発と貧民を招いた耕作が行われ後世の荘園をその延長とする。唐代の部曲がヨーロッパの農奴に相当していたが、晩唐以後の混乱によって部曲が自立して一円的な大土地所有も分解した。その結果、宋代の荘園の内実は零細な土地片の集積を便宜上荘園としているに過ぎず、地主と佃戸は自由人間の契約関係に基づく小作制度によって経営されていたとするものである。 この両者の説は中国史における時代区分論と密接に関係しており、周藤は唐及び五代を「古代」・宋を「中世」とする立場から、宮崎は漢代を「古代」・三国時代から唐及び五代を「中世」・宋を「近世」とする立場に立っており、ヨーロッパ中世の荘園と対比すべき農奴制による経営に基づく荘園がそれぞれが主張する「中世」に存在したというものである。そのため、双方の中国史上における荘園の位置づけも大きく異なっている上、周藤や宮崎の晩年には冷戦構造の崩壊とともに「世界史の基本原則」という概念のそのものに対する批判が出現したことで、議論自体が中途で停滞することとなった。その後、高橋芳郎が佃戸には農奴制による佃僕と小作制による佃客の2種類があるとする「二類型論」を唱えたのをはじめとして、両説を折衷する見解や地域差・民族問題などと関連付けて両説の並立の可能性を探る見解も出されているが、通説の確立には程遠い状況にあるとされている。
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