日本における世襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 08:53 UTC 版)
大化の改新以前の日本は氏族社会であり、氏人は氏上に統率され、氏上の地位は子孫などによって継承された。天皇の統治が確立すると、氏上は朝廷に一定の奉仕を行い、相続の対象も祭祀とともに家業や家名が重要視された。氏上の地位は被相続者の選定により代々子または血縁者に継承された。 奈良時代には唐朝の律令を取り入れ法体系を整備した。律令は形式的には近代に至るまで存在したが、これが実質的効力を持ったのは平安時代前期までであった。継嗣令に蔭位の制が規定されており、皇親、諸王、官人五位以上の者の子または孫で嫡子孫となる者は一定の位階に叙されて、官人として祖父の跡を継承した。嫡子は嫡妻長子を第一順位とし、ない場合は直系卑属や養子から選んだ。六位以下内八位以上の嫡子は位子の制により官人登用の道が開かれていた。のち、庶子も嫡子を立てることが許されたが、これは家業、家産継承のためである。すなわち、継嗣令は家の世襲を意図したものであった。この制度は、平安時代を通じて守られ、庶民の場合も「嫡嫡相承」といって、家業、家産が継承された。また、平安時代には古代の氏族制が一部で復活し、一族の氏上が氏人を統率するが氏上の地位も世襲的に継承された。この代表例が源平藤橘である。 中世は武家による封建体制が確立し社会組織が一変した。すでに平安時代末期には各地で血縁団体、家族共同体である武士団が組織され、一族の族長を家督と呼び、家督は族人に対し軍事的統率権を持った。家督の地位は嫡子によって代々継承された。中世では一族が分岐して単一の家を構成し、財産(土地)の慣習的な分割相続と封建的勤務を調和するため、諸子の中から惣領を選別し他の庶子を物的に支配する惣領制が発達した。この体制により惣領は一族の家督に人的統制を受ける一方で、惣領として家の継承者となった。家督も惣領もともに嫡子がその地位を世襲した。家督制も惣領制も南北朝時代から室町時代からにかけて次第に崩れ、庶子は惣領から独立し、室町時代末期には嫡子が家名と家産を併せて継承する長子単独相続に変化した。 江戸時代は厳格な身分制度が確立して、士・農・工・商・賤民の階級が存在し、職業が固定したため、上下を通じて家の世襲制が一般化した。武士の場合、家の存続は封録の継承にあり、主君の干渉を伴う封禄相続が実現し、相続の効果として家名と家産を取得した。相続人は嫡出長子であるが、長子のない場合は届出、願出によって嫡子を定めて家の存続を計った。庶民は家業と家産を継承したが、家名の相続は消滅した。相続は長男(惣領)の単独相続が一般的であったが、東北地方を中心に「姉家督」と呼ばれる相続が行われており、漁村や長野県諏訪地方では末子相続の慣習のある地方もあった。
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