さんかく‐ぼうえき【三角貿易】
三角貿易
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国際通商 |
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三角貿易(さんかくぼうえき、英: triangular trade)とは、3つの国や地域が関係している貿易構造のこと。主に17世紀から18世紀に展開されたイギリスなどによる大西洋での貿易を指す。
概要
2国間の国際貿易において、貿易収支が長期間不均衡のままであると、赤字の国から国際通貨(近世・近代では銀)が流出し続け、最終的には決済手段がなくなってしまう。銀本位制の場合、黒字国は余剰となり国内価値が低下(インフレ)した通貨で、相対的に割安となった外国商品の輸入を増やし、赤字国は通貨不足によるデフレで国内価格の下落した商品を輸出に向けることにより、貿易収支は均衡に向かおうとする。この新たな輸出入の相手は第三国でもよい(多国間貿易)。
特に、大航海時代以降にイギリスが主体となった3国間(3地域間)貿易を「三角貿易」という[要出典]。当時の西アフリカでは、戦争捕虜を奴隷として輸出していたが、その奴隷が三角貿易の主要な商品であったことが、現代ではポストコロニアリズムの観点から批判されている。
ポルトガル・清国・日本の貿易
国際貿易は古くは、紀元前2世紀に始まる古代ローマ(共和政ローマ、ローマ帝国)の金と中国の絹の交換から始まり、18世紀のあいだシルクロードが利用されていたが、15世紀以降のポルトガルやスペインによる大航海時代を経て、16世紀には海上貿易が中心となった。
中国では明代に銀の需要が増大していたが、倭寇の問題があり日本とは貿易ができなかった。1543年、海商で倭寇の頭目でもある平戸の王直の船が種子島に漂着し、乗船していたポルトガル商人が火縄銃と引き換えに日本銀を得るようになるが(南蛮貿易)、ポルトガル商人は同時に明朝のために、日本銀を明の生糸と交換した。ポルトガル人はこの利益を得るため、1557年に明のマカオに拠点を設立しており、明皇帝が倭寇撃退のために公布していた渡航禁止令の対象からも除外されていた[1]。のちにポルトガル商人は幕府の認可を得て、長崎の出島を拠点として日本と貿易をした。日本銀は16世紀中期以降、石見銀山や但馬銀山などでの生産が急増し、16世紀後半には1200〜1300トン、17世紀前半には2400トンの銀が中国に流れた[2]。
- 火縄銃(ポルトガル) → 銀(日本)
- 銀(ポルトガル)→ 生糸(明)
- 生糸(ポルトガル)→ 欧州
オランダの宗教改革と欧州の八十年戦争のあいだに日本でもカトリックが幕府に弾圧されたことから、南蛮貿易は、平戸オランダ商館や台湾の安平古堡を拠点としていたプロテスタント勢のオランダ東インド会社によって行われるようになり、江戸幕府は平戸オランダ商館をカトリックがいなくなったあとの出島に移転させた。江戸時代の日本には蘭学が広まることになったが、フリントロック式(燧石銃)や戦列艦は、幕末まで輸入されないままであった。
大西洋三角貿易
欧州、西アフリカ、西インド・北米の三角貿易(奴隷貿易)
- 砂糖・銃・奴隷の三角貿易


三角形の頂点にあたる地域は、ヨーロッパ・西アフリカ・西インド諸島の3地域。辺にあたる貿易ルートはヨーロッパの船による一方通行となっており、また、特定の海流に乗っている。
- カナリア海流:ヨーロッパ → 西アフリカ(繊維製品・ラム酒・武器)
- 南赤道海流:西アフリカ → 西インド諸島など(奴隷『“黒い積み荷”』)
- メキシコ湾流・北大西洋海流:西インド諸島など → ヨーロッパ(砂糖・綿『“白い積み荷”』)
17世紀から18世紀にかけて、イギリスをはじめとするヨーロッパでは喫茶の風習が広まり、砂糖の需要が急激に高まった。それに伴い、砂糖を生産する西インド諸島およびブラジル北東部などでは労働力が必要となった。
こうした状況の下で、ヨーロッパから出航した船は、カナリア海流に乗って西アフリカへ繊維製品・ラム酒・武器を運んだ。輸出された武器は対立するグループ間へ供与され、捕虜(奴隷)の確保を促すこととなった。それらの品物と交換で得た奴隷を積み込み、南赤道海流に乗って西インド諸島やブラジル(ブラジル南東部へはブラジル海流)へと向かい、交換で砂糖を得て、メキシコ湾流と北大西洋海流に乗って本国へ戻った(奴隷貿易)。こうして、ヨーロッパ→西アフリカ→西インド諸島→ヨーロッパという一筆書きの航路が成立し、「三角貿易」と言われた。奴隷の一部はアメリカ合衆国南部へと輸出され、多くは綿花のプランテーションで働かされることとなった。綿花はイギリスの織物工場へ輸出され、産業革命の基盤になったとされている。貿易の平均的な利益率は10%-30%といわれている。
英国、北米、西インドの三角貿易
17世紀後半から18世紀後半にかけて、アメリカ独立戦争以前のイギリス本国、北米大陸の英領13植民地と、英領西インド諸島における貿易も三角貿易の一類型である。 これは、カリブ海沿岸地域の農場主・奴隷のための食糧として北米植民地から農産物や魚(特に塩たら)を西インド諸島へ、西インドからの砂糖や糖蜜はイギリス本国・北米へ、そして、イギリスからは工業製品が北米や西インドへという貿易パターンである。また、イギリス船に南ヨーロッパ向けのニューファンドランド沖産の塩たら、ボストン港からのとうもろこしを積み込むケースもあった。
イギリス、インド、清国の三角貿易
- 茶・アヘン・綿織物力の三角貿易
三角形の頂点にあたる地域は、イギリス・インド・清の3つの国であり、主な商社はイギリス東インド会社であった。辺にあたる貿易ルートは実際には両方向通行であり、またインドの中継貿易の形をしているため、三角形の形になっていないが、手形の流通によって三角形となっている。主要な取引品目の流れについて記載。
- 清 → イギリス(茶)
- イギリス → インド(綿織物)
- インド → 清(銀、のちにアヘン)
当初、イギリスとインドの2国間貿易ではイギリスの貿易黒字、イギリスと清の2国間貿易ではイギリスの貿易赤字が続いていた。対インド黒字で対清赤字を穴埋め出来ず、国際通貨の地位にあった銀が対価としてイギリスから清に流出していた。ただし、この時期、既に為替手形による国際貿易が成立しており、手形交換所があるロンドンから直接清に銀が流出するのではなく、中継貿易地のインドから清へ銀が流出していた(インドの対清赤字)。
事態打開を図るため、インドで麻薬であるアヘンを製造し、清へ密輸する活動が活性化した。こうした政策が推進されたのは、「外国にお金が出て行くと損だ」という重商主義的な見方にイギリスが囚われていたためである。清では麻薬であるアヘン消費が拡大し、銀はインドの綿製品輸入を経由してイギリスへ渡った。この3カ国を跨ぐデイヴィッド・サスーンのような貿易商人も台頭した。
清はこの取引において大量の銀流出に見舞われ、アヘン密輸の取締り強化を図り、それが1840年のアヘン戦争への端緒となった。
また、この3カ国は労働市場において苦力貿易も行っていた。
その他の三角貿易

インド洋三角貿易(二重三角貿易)はダウ船によるもので、アラビア人あるいはソマリアの人びとが結んだものである。
ダルエスサラーム(タンザニア)、カラチ(パキスタン)およびアデン(イエメン)に向けて出航し、バスラ(イラク)、ムンバイ(インド)およびモンバサ(ケニア)に帰航する形態の交易であり、中世にまでさかのぼる。これら6港は交易関係者のなかでは有名であり、1960年代まではこの貿易が繁栄していた。
インド洋北西部は、季節風およびモンスーン海流(季節風海流)と呼ばれる季節によって向きが替わる海流があり、これらにのることで容易に船舶が往復することが出来るという特徴的な海域である。そのため、これら季節風および海流の影響が及ぶインド亜大陸北西岸~アラビア半島南東岸~東アフリカを繋ぐ大きな往復航路に、様々な小さな航路が接続される形で交易路が成立した。なお、これより南の海域では、北赤道海流や赤道反流などによる東西に循環する海流があり、これらに乗って東南アジア島嶼部のモンゴロイド(マレー系)がマダガスカルに定住した(→マダガスカルの歴史)と言われるものの、交易路としては成立しなかった[要出典]。
脚注
出典
- ^ ブリュッセイ, 2019年
- ^ 『日本銀』 - コトバンク。旺文社世界史事典 三訂版。
出典・参考文献
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- 浅田實 『東インド会社 - 巨大商業資本の盛衰』 講談社〈講談社現代新書〉、1989年。
- 池本幸三・布留川正博・下山晃 『近代世界と奴隷制 - 大西洋システムの中で』 人文書院、2003年。
- デイヴィッド・エルティス・デイヴィッド・リチャードソン 『環大西洋奴隷貿易歴史地図』 増井志津代訳、東洋書林、2012年。
- 角山栄 『茶の世界史 - 緑茶の文化と紅茶の社会』 中央公論新社〈中公新書〉、1980年。
- ケネス・ポメランツ・スティーヴン・トピック 『グローバル経済の誕生 - 貿易が作り変えたこの世界』 福田邦夫・吉田敦訳、筑摩書房、2013年。
関連項目
三角貿易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 09:01 UTC 版)
詳細は「三角貿易」を参照 18世紀、ナントは地元船主の幸運でなされた三角貿易によって生じた、急激な経済発展で知られた。ナントはフランスの所有する奴隷船の母港であった。1674年以後、ナントとアンティル諸島との貿易の緊張関係が乱暴なまでに加速した。この年はフランス西インド会社の活動停止措置、そして1685年から1688年の間平均でさらに60の武装船が必要になった、セネガル会社(フランス語版)の創設がなされた年であった。また、17世紀の名誉革命でイングランドを追われたジャコバイトたちがナントへ逃れて、共同体をつくった時期も重なった。以後彼らはボルドーやラ・ロシェル、イスパニョーラ島のサン=ドマングにも共同体をつくった。 1669年から、ルイ14世はアンティル諸島への奴隷輸出認可を既存の会社に独占させず、国王自身で決めることとした。これがナントの船主たちに巨額の富をもたらした。黒人法(英語版)(フランス語: Code Noir, フランス植民地帝国内での解放奴隷の活動を制限し、カトリック以外の宗教を禁じて、植民地からユダヤ人を追放した法律)が施行された1685年だけで、ナントは対アメリカ大陸用の船舶58隻を備えていた。1686年以後、港には大西洋を横断できる50バレル以上の船舶84隻があった。これは1666年の3倍以上であった。1704年には、その6倍の151隻となった。 1688年から、ナントの船主たちはアメリカ大陸へ向けて大勢の黒人奴隷を輸送した。1427回もの遠征がナントで準備され、いずれもフランスのアフリカ奴隷貿易手形が42%を占めていた。ナントは三角貿易で富を築き、ヨーロッパ大陸初のアフリカ奴隷貿易の基地となった。ナントを本拠地とする大型奴隷船は、アフリカ大陸西岸へ向けて発った。そこで船長は、地元の首長から物々交換で男女の奴隷を買い付け、プランテーション農園での奴隷を必要とするアンティル諸島へ彼らを運んでいった。アンティルからナントへ戻る船には、奴隷を売った金で買い付けた、アンティルで採れる砂糖と香辛料が積まれていた。この貿易の内容を直接外部へ語ることは避けられ、ある者は「黒檀の航海」(Route du Bois d’Ébène)だと話した。 18世紀におけるフランス海港の競争(フランス語版)では、ナントは1720年以後に非常に明白な利点を持っていた。これはイングランド出身の貴族を受け入れたためであった。1652年、当時のイングランド護国卿オリバー・クロムウェルと対立したジャコバイトたちは、ナント市内に小さな共同体を築いていたのである。 1690年以降、イングランド移民たちは年長者にならって軍人となり、特に奴隷貿易船で主要な役割を担う大貿易商人となった。1720年、イスパニョーラ島南方の辺境へプランテーションが拡大したことで、サン=ドマングで砂糖が生産されなくなった時、18世紀の文書によればナントはフランス貿易全体の44%を占めていた。パリにある建物の値段が5万リーヴルした時代に、ナントは10人の百万長者がいる州唯一の都市であった。これらの大富豪のリーダーは、サン・マロ生まれのアントワーヌ・ワルシュであった。彼は、イングランド王ジェームズ2世がフランスへ亡命した際に同行し、サンマロに移住した貴族の子であった。ナントに根を下ろしたカトリックのジャコバイトたちは、数十年にわたってサン=ドマングにプランテーション農園を持ち、輸出分野でイングランドに追いつこうとしていたのであった。 18世紀半ば、ボルドーがナントを押さえてフランス貿易の40%を握るようになった。これは、ボルドー後背地のマザム地方、特にモントーバンの織物産業のためであった。織物を積んだボルドーから出た船は直接サン=ドマングへ向かい、帰りには砂糖を積んできた。対してナントは、対アンティル貿易に付加価値を付けられる製品に欠け、三角貿易のみに集中していた。奴隷船船長は、サン=ドマング南部に自身のプランテーション農園を持つことが許されていた。しかし、島で生産された莫大な量の砂糖を持ち帰るには船の容積トン数が不十分であった(イスパニョーラ島は、イギリス領ジャマイカやバルバドスより先に世界初の砂糖輸出地域となっていた)。 ナント出身者が所有する西インド諸島の織物製造所が付加価値を生む製品を作って、18世紀半ばに上記の問題が解消したことで、スイス出身のプルターレス家が再び富を蓄えた。一方で綿花に関する再輸出はサン=ドマングで多様化し、遠く離れた、イギリスで綿織物産業が産声をあげたマンチェスター地方へも輸出が行われた。 アカディアをアカディア人追放(フランス語版)によって追われたアカディア人たちが、1775年から1785年までナントのサンタンヌ区に難民として暮らしていた。
※この「三角貿易」の解説は、「ナント」の解説の一部です。
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