さんかく‐ぼうえき【三角貿易】
三角貿易
三角貿易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 09:01 UTC 版)
詳細は「三角貿易」を参照 18世紀、ナントは地元船主の幸運でなされた三角貿易によって生じた、急激な経済発展で知られた。ナントはフランスの所有する奴隷船の母港であった。1674年以後、ナントとアンティル諸島との貿易の緊張関係が乱暴なまでに加速した。この年はフランス西インド会社の活動停止措置、そして1685年から1688年の間平均でさらに60の武装船が必要になった、セネガル会社(フランス語版)の創設がなされた年であった。また、17世紀の名誉革命でイングランドを追われたジャコバイトたちがナントへ逃れて、共同体をつくった時期も重なった。以後彼らはボルドーやラ・ロシェル、イスパニョーラ島のサン=ドマングにも共同体をつくった。 1669年から、ルイ14世はアンティル諸島への奴隷輸出認可を既存の会社に独占させず、国王自身で決めることとした。これがナントの船主たちに巨額の富をもたらした。黒人法(英語版)(フランス語: Code Noir, フランス植民地帝国内での解放奴隷の活動を制限し、カトリック以外の宗教を禁じて、植民地からユダヤ人を追放した法律)が施行された1685年だけで、ナントは対アメリカ大陸用の船舶58隻を備えていた。1686年以後、港には大西洋を横断できる50バレル以上の船舶84隻があった。これは1666年の3倍以上であった。1704年には、その6倍の151隻となった。 1688年から、ナントの船主たちはアメリカ大陸へ向けて大勢の黒人奴隷を輸送した。1427回もの遠征がナントで準備され、いずれもフランスのアフリカ奴隷貿易手形が42%を占めていた。ナントは三角貿易で富を築き、ヨーロッパ大陸初のアフリカ奴隷貿易の基地となった。ナントを本拠地とする大型奴隷船は、アフリカ大陸西岸へ向けて発った。そこで船長は、地元の首長から物々交換で男女の奴隷を買い付け、プランテーション農園での奴隷を必要とするアンティル諸島へ彼らを運んでいった。アンティルからナントへ戻る船には、奴隷を売った金で買い付けた、アンティルで採れる砂糖と香辛料が積まれていた。この貿易の内容を直接外部へ語ることは避けられ、ある者は「黒檀の航海」(Route du Bois d’Ébène)だと話した。 18世紀におけるフランス海港の競争(フランス語版)では、ナントは1720年以後に非常に明白な利点を持っていた。これはイングランド出身の貴族を受け入れたためであった。1652年、当時のイングランド護国卿オリバー・クロムウェルと対立したジャコバイトたちは、ナント市内に小さな共同体を築いていたのである。 1690年以降、イングランド移民たちは年長者にならって軍人となり、特に奴隷貿易船で主要な役割を担う大貿易商人となった。1720年、イスパニョーラ島南方の辺境へプランテーションが拡大したことで、サン=ドマングで砂糖が生産されなくなった時、18世紀の文書によればナントはフランス貿易全体の44%を占めていた。パリにある建物の値段が5万リーヴルした時代に、ナントは10人の百万長者がいる州唯一の都市であった。これらの大富豪のリーダーは、サン・マロ生まれのアントワーヌ・ワルシュであった。彼は、イングランド王ジェームズ2世がフランスへ亡命した際に同行し、サンマロに移住した貴族の子であった。ナントに根を下ろしたカトリックのジャコバイトたちは、数十年にわたってサン=ドマングにプランテーション農園を持ち、輸出分野でイングランドに追いつこうとしていたのであった。 18世紀半ば、ボルドーがナントを押さえてフランス貿易の40%を握るようになった。これは、ボルドー後背地のマザム地方、特にモントーバンの織物産業のためであった。織物を積んだボルドーから出た船は直接サン=ドマングへ向かい、帰りには砂糖を積んできた。対してナントは、対アンティル貿易に付加価値を付けられる製品に欠け、三角貿易のみに集中していた。奴隷船船長は、サン=ドマング南部に自身のプランテーション農園を持つことが許されていた。しかし、島で生産された莫大な量の砂糖を持ち帰るには船の容積トン数が不十分であった(イスパニョーラ島は、イギリス領ジャマイカやバルバドスより先に世界初の砂糖輸出地域となっていた)。 ナント出身者が所有する西インド諸島の織物製造所が付加価値を生む製品を作って、18世紀半ばに上記の問題が解消したことで、スイス出身のプルターレス家が再び富を蓄えた。一方で綿花に関する再輸出はサン=ドマングで多様化し、遠く離れた、イギリスで綿織物産業が産声をあげたマンチェスター地方へも輸出が行われた。 アカディアをアカディア人追放(フランス語版)によって追われたアカディア人たちが、1775年から1785年までナントのサンタンヌ区に難民として暮らしていた。
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