ユグノー金融と三角貿易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 03:32 UTC 版)
「イングランド銀行」の記事における「ユグノー金融と三角貿易」の解説
1694年、軍事費を調達する目的で創設。スコットランド人のウィリアム・パターソン と財務府長官のチャールズ・モンタギューによる。イングランド王国政府の銀行として同年7月27日のウィリアム3世・メアリー2世の勅令により認可された。初代総裁はジョン・フーブロン。証券市場の成立などの改革も進められた。1695年10月にジョン・ロックが銀貨の改鋳について建議した。ロック案は閣議決定されて、12月17日に法案となった。ロックは27日にFurther Considerations Concerning Raising the Value of Money という論文を発表した。翌年1月に法案は裁可も得て成立した。 1699年、イギリスが清から広東貿易を許される。1720年、南海泡沫事件。 1734年、イングランド銀行はスレッドニードル街の現在地へ移転した。かつてはポールトリー街のグローサーズ・ホール内にあった。 1750年、長期国債の発行権を独占する。1764年、砂糖法。 1772年、いわゆるエアー銀行が倒産。アダム・スミスの『国富論』執筆に影響した。 1780年、ゴードン暴動が起こる。以来、軍がイングランド銀行の夜間警備にあたるようになった。この警備習慣はライバル銀行家たちの怒りを買ったが、しかし伝統となって1973年まで続いた。 1786年、大臣がおかれない減債委員会(Commissioners for the Reduction of the National Debt)が発足した。 1797年、イングランド銀行制限法により兌換停止。対仏大同盟に基づいた活動により正貨が流出して、前年から恐慌がおきていた。イギリスの銀行はこの年270行であったが、1810年には783行となる。1810年の地金委員会による調査で、このときの兌換停止は金高騰と為替相場下落の原因と指摘された。
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