帝国の重臣としてとは? わかりやすく解説

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帝国の重臣として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/14 04:58 UTC 版)

ヨハネス6世カンタクゼノス」の記事における「帝国の重臣として」の解説

ヨハネス生涯と経歴主として自身著作である『歴史』によって知る事が出来る(著作に関する詳細後述)。彼が最初に世に出るのは、1320年アンドロニコス3世パレオロゴス(当時共同皇帝)が起こしたスキャンダルその後帝位継承変更に伴う争乱に於いてであった当時はメガス・パピアス(顧問官一つ)なる職務にあったカンタクゼノスは同世代友人であったアンドロニコス3世、及びいち早く彼の許に加わったシュルギアンネス・パレオロゴス・フィラントロペノス(母方祖母ミカエル8世の姉エイレーネー、父はキリスト教改宗したクマン人中世ギリシア語表記ではシルギアニス・パレオロゴス・フィランソロピノス)の説得を受け、バルカン半島西部行政官務めていたテオドロス・シュナデノス(中世ギリシア語でセオドロス・シナディノス)と共にこの陣営加わった。カンタクゼノスはその政治的手腕生かしコンスタンティノポリス市民に対して政治刷新減税などの宣伝行って支持集め一方首都に近いトラキア地方行政官職を買官して勢力地の確保努めた。後に彼の敵対者となったアレクシオス・アポカウコスはこの頃カンタクゼノスによって抜擢され長く彼の部下として従っていた。 翌1321年からは公然たる内乱突入し、その趨勢何度変動見た。特に、アンドロニコス3世優位に立つにつれ、勝利彼の許で第一位占めるのが誰になるのかでカンタクゼノスとシュルギアンネスが対立し結局後者敵側アンドロニコス2世パレオロゴス陣営寝返る有様であったいずれにせよ祖父と孫とのこの争い1328年、孫アンドロニコス3世勝利終わった祖父アンドロニコス2世退位し修道院入った(修道名アントニオス)。 カンタクゼノスはアンドロニコス3世によって帝国軍総司令官(メガス・ドメスティコス)に昇進し、その統治支えた小アジア領土確保しようとした遠征失敗終わったが、ヨーロッパ側では成功収めた1335年始まり1340年に完全決着したエピロス専制公国併合彼の手腕によるところが大きい。

※この「帝国の重臣として」の解説は、「ヨハネス6世カンタクゼノス」の解説の一部です。
「帝国の重臣として」を含む「ヨハネス6世カンタクゼノス」の記事については、「ヨハネス6世カンタクゼノス」の概要を参照ください。

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