帝国の重臣として
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「ヨハネス6世カンタクゼノス」の記事における「帝国の重臣として」の解説
ヨハネスの生涯と経歴は主として彼自身の著作である『歴史』によって知る事が出来る(著作に関する詳細は後述)。彼が最初に世に出るのは、1320年のアンドロニコス3世パレオロゴス(当時は共同皇帝)が起こしたスキャンダルとその後の帝位継承者変更に伴う争乱に於いてであった。当時はメガス・パピアス(顧問官の一つ)なる職務にあったカンタクゼノスは同世代の友人であったアンドロニコス3世、及びいち早く彼の許に加わったシュルギアンネス・パレオロゴス・フィラントロペノス(母方の祖母はミカエル8世の姉エイレーネー、父はキリスト教に改宗したクマン人。中世ギリシア語表記ではシルギアニス・パレオロゴス・フィランソロピノス)の説得を受け、バルカン半島西部で行政官を務めていたテオドロス・シュナデノス(中世ギリシア語でセオドロス・シナディノス)と共にこの陣営に加わった。カンタクゼノスはその政治的手腕を生かし、コンスタンティノポリス市民に対しては政治の刷新と減税などの宣伝を行って支持を集める一方、首都に近いトラキア地方の行政官職を買官して勢力地の確保に努めた。後に彼の敵対者となったアレクシオス・アポカウコスはこの頃カンタクゼノスによって抜擢され、長く彼の部下として従っていた。 翌1321年からは公然たる内乱に突入し、その趨勢は何度か変動を見た。特に、アンドロニコス3世が優位に立つにつれ、勝利後彼の許で第一位を占めるのが誰になるのかでカンタクゼノスとシュルギアンネスが対立し、結局後者は敵側、アンドロニコス2世パレオロゴスの陣営に寝返る有様であった。いずれにせよ祖父と孫とのこの争いは1328年、孫アンドロニコス3世の勝利で終わった。祖父アンドロニコス2世は退位し修道院に入った(修道名アントニオス)。 カンタクゼノスはアンドロニコス3世によって帝国軍総司令官(メガス・ドメスティコス)に昇進し、その統治を支えた。小アジア領土を確保しようとした遠征は失敗に終わったが、ヨーロッパ側では成功を収めた。1335年に始まり、1340年に完全決着したエピロス専制公国の併合は彼の手腕によるところが大きい。
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