帝国への忠誠と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/25 13:24 UTC 版)
「サアーダト・アリー・ハーン」の記事における「帝国への忠誠と死」の解説
だが、サアーダト・アリー・ハーンは帝国を必ずしも見捨ててはおらず、1737年3月にデリーがマラーターにより危機にさらされた際は援軍を出し、その援軍はボーパールの地で戦った(ボーパールの戦い)。 1739年2月13日、サアーダト・アリー・ハーンはナーディル・シャーの侵攻に際して、カルナールの戦いで自ら兵を率いたが敗北した。帝国軍が講和したのち、3月6日に彼はナーディル・シャーから帝国の摂政(ヴァキール・イ・ムトラク)の地位に任命された。 その後、3月11日にデリーでが虐殺が行われた際、サアーダト・アリー・ハーンは捕えられ、ダーラー・シコーの屋敷であった場所に監禁され、3月19日にそのままで死亡した。 とはいえ、その死までにアワドは帝国からは実質的に独立した地域となり、その地位と領土は世襲的なものとなっており、太守位は甥のサフダル・ジャングによって世襲された。
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