帝国キネマの小國狂二
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1903年(明治36年)8月15日、兵庫県神戸市に生まれる。『日本映画監督全集』(キネマ旬報社)を執筆した岸松雄によれば、生年は1905年(明治38年)説もあるといい、本名については、『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』(映画世界社)に「本名も同じく小國狂二」とあるように、従来それが本名とされていたものを岸は否定し、「山田 常次」であるとした。『放送年鑑 ラジオ・テレビのすべて 1965』(日本放送作家協会)、『文化人名録 第19版 著作権台帳』(日本著作権協議会)、いずれの「琴代 京平」の項目においても、「小国 常次」が併記されているが、岸によればそれはべつの筆名であるという。『文藝年鑑』(日本文藝家協会、1978年)によれば、琴代京平の本名は「小国 常次」であるという。 旧制中学校を卒業後、関西学院(現在の関西学院大学)に進学するが、1922年(大正11年)、同学を中途退学する。新劇の劇団に参加し、座付作者として活動を始める。マキノ・プロダクションと提携関係にあった実川延松の延松映画が製作し、1926年(大正15年)3月19日に公開された『怪刀乱舞』にオリジナルシナリオが採用された記録がある。同年、 帝国キネマ演芸芦屋撮影所脚本部に入社する。1928年(昭和3年)には同社を退社、谷崎十郎が主宰する奈良のヤマト映画製作所で、『因果かづら』と『否通魔』を監督したが、同年4月には帝国キネマ演芸に復帰している。 1932年(昭和7年)には、京都の東活映画社脚本部に入社、脚本を量産するが、同社は同年10月に解散している。
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