帝国キネマの大監督としてとは? わかりやすく解説

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帝国キネマの大監督として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/12 03:34 UTC 版)

中川紫郎」の記事における「帝国キネマの大監督として」の解説

1892年明治25年11月25日岡山県川上郡東成羽村現在の高梁市成羽町)に生まれる。戦国時代の武将中川清秀の子孫であり、父・増治郎は川上郡落合村村長川上郡郡長歴任した旧制・岡山県立高梁中学校(現在の岡山県立高梁高等学校)を卒業旧制第六高等学校現在の岡山大学)に進学在学中同校「北寮」の寮歌作詞したその後大阪出て大阪歌舞伎嵐璃徳座付作家となる1920年大正9年5月、「帝国キネマ演芸」(帝キネ)が設立されると嵐一座とともに同社小阪撮影所入社する脚本係から監督部へ転身同年、嵐一座出演した大江山酒呑童子』で映画監督としてデビュー同作同年10月8日公開された。以降、嵐の主演作のほとんどを監督して量産128本目監督作『愛の扉』では、小田照葉高岡智照尼)を主演据え、「純映画劇」と銘打って1923年大正12年)に公開成功を収める同作は、以降帝キネ映画の流れ変えたとされる中川帝キネ時代功績は、小説映画化いち早く取り組み谷崎潤一郎の『お艶殺し』を最初に映画化し(『おつやと新助』、1922年)、岡本綺堂の『修善寺物語』や『鳥辺山心中』(いずれも1923年)も初め映画化したことである。また、新人俳優市川百々之助スターにし、広瀬五郎森本良男らを映画監督として一本立ちさせたことであった当時監督志望俳優山本嘉次郎などの面倒もよくみたが、フンドシ1本でロケ先を歩き巡査咎められることもあったという類の奇行の人であった同社入社以来わずか4年200近く映画撮り30歳前後年齢ですでに「大監督」と呼ばれるまでになった中川は、1924年大正13年)、マキノ映画製作所出身長尾史録監督作清姫の恋』、森本良男監督監督第2作人魚の精』のプロデュースをしたのちの同年7月、同2作の公開待たず帝キネを突然退社渡米した

※この「帝国キネマの大監督として」の解説は、「中川紫郎」の解説の一部です。
「帝国キネマの大監督として」を含む「中川紫郎」の記事については、「中川紫郎」の概要を参照ください。

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