帝国の遺産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:51 UTC 版)
しかし、大元ウルスが北走してからも14世紀後半には東はモンゴリアの北元から西はイラクのジャライル朝まで大小さまざまなモンゴル帝国の継承政権があり、その政治・社会制度の残滓はそれよりはるか後の時代になってもユーラシアの広い地域で見られた。モンゴルを倒して漢民族王朝を復興したとされる明においてもその国制はおおむね元制の踏襲であり、例えば軍制の衛所制が元の千戸所・万戸府制(後述)の継続であることは明らかである。同じ頃、中央アジアから西アジアに至る大帝国を築き上げたティムールは、先祖がチンギス・カンに仕えた部将に遡るバルラス部の貴族出身であり、その軍隊は全く西チャガタイ・ハン国のものを継承していたのみならず、彼自身やその後継者は国家の君主を名乗らずに、名目上はチャガタイ家当主であるハーン(カン)のキュレゲン(女婿)を称した。 そして、チンギス・カンの名とその血統はその後も長らく神聖な存在でありつづける(チンギス統原理)。東ヨーロッパのクリミア半島では1783年まで、中央アジアのホラズムでは1804年まで、インド亜大陸では1857年まで、王家がチンギス・カンの血を引くことを誇りとするモンゴル帝国の継承政権(クリミア・ハン国、シャイバーン朝の後裔ヒヴァ・ハン国、ティムール朝の後身ムガル帝国)が存在した。また、かつてのジョチ・ウルス東部に広がった遊牧民カザフの間ではソビエト連邦が誕生する20世紀初頭までチンギス・カンの末裔が指導者層として社会の各方面で活躍した。 また、2004年にオックスフォード大学の遺伝学研究チームの報告によると、チンギス・カンが最も遺伝子を遺した人物とし、その数はアジア・ヨーロッパを中心に1,600万人いるとされる。(しかしながら、イタリアの集団遺伝学者ルイジ・ルーカ・カヴァッリ=スフォルツァなどは、Y染色体の広範な分布について、共通の先祖を想定することには同意出来るものの、これを歴史上のある特定の人物の子孫であると特定するには正確さを欠いている、として異議を唱えている。さらに、この研究を主導した一人であるクリス・テイラー=スミス Chris Tyler-Smith は分布の状況と一夫多妻制に原因をもとめる見方をしているが、これに対しても、カヴァッリ=スフォルツァはテイラー=スミスのこの見解を「あまりに短絡的かつ扇情的」であるとして非難している) モンゴル帝国の故地モンゴリアでは、15世紀の終わりに即位したクビライの末裔ダヤン・ハーンのもとで遊牧部族の再編が行われ、世代を重ねるごとに分家を繰り返したダヤン・ハーンの子孫たちが諸部族の領主として君臨するようになる。17世紀には満州人の大清がダヤン・ハーンの末裔チャハル部から元の玉璽を譲り受け、大元の権威を継承して満州・モンゴル・中国の君主となる手続きを取り、孝荘文皇后に代表されるようにボルジギン氏との婚姻も進め、新たにモンゴルの最高支配者となっている。清のもとでもダヤン・ハーンの末裔の王族たちは領主階層として君臨しつづけ、近代にもカザフのチンギス・カンの末裔たちと同様に社会の指導者層として活躍した。現在のモンゴル国や内モンゴルの国境や社会組織は清代のものを継承しており、モンゴル帝国の影響は今も間接的に残っているといえる。
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