中世ギリシア語
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/10 18:29 UTC 版)
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中世ギリシア語 Byzantine Greek, Romaic | ||||
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Ἑλληνική Ellinikí | ||||
話される国 | 東 地中海 | |||
話者数 | — | |||
言語系統 | インド・ヨーロッパ語族
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初期形式 | ||||
表記体系 | ギリシア文字 | |||
言語コード | ||||
ISO 639-2 | grc | |||
ISO 639-3 | grc (i.e.古代ギリシア語と共に[1]) | |||
Linguist List | qgk | |||
Glottolog | なし | |||
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中世ギリシア語(Medieval Greek)は5~6世紀の古典古代の終わりから中世の終わり(1453年のオスマントルコによる征服)までの間のギリシア語の区分である。
7世紀以降から、ギリシア語は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の唯一の政治行政語であったので、この時代のギリシア語を「ビザンツ・ギリシア語」とも言う。中世ギリシア語の研究と文献はビザンツ帝国の研究から派生しており、ビザンツ帝国の歴史と文化の研究である。
中世ギリシア語の始まりは4世紀初め(紀元後330年)に遡る。この年ローマ帝国ではコンスタンティヌス1世がコンスタンティノープルを首都とし、紀元後395年には、ローマ帝国が分裂した。ただし、このアプローチは、文化的および言語的な発展ではなく、政治的な発展に主眼を置いているため、かなり恣意的である。 実際は、この時までに、話し言葉、特に発音は、すでに現代の形に至っていた[2]。
アレキサンドロス大王の征服とそれに続くヘレニズム時代により、ギリシア語はアナトリアと東地中海全域の人々に広がり、話し言葉としての発音と構造に変化した(俗語化)。中世ギリシア語は、コイネーギリシア語として知られるこの俗語と、現代ギリシア語との中間的位置づけにある。ビザンツ帝国のギリシア語文学は依然としてアッティカ方言の影響を強く受けていたが、新約聖書の言語でありギリシャ正教の典礼言語であるコイネーギリシア語の影響も受けていた。
脚注
- ^ The separate code "gkm" was proposed for inclusion in ISO 639-3 in 2006. The request is still pending. (“Change Request Documentation: 2006-084”. sil.org. 2018年5月19日閲覧。)
- ^ Peter Mackridge, "A language in the image of the nation: Modern Greek and some parallel cases", 2009.
中世ギリシア語
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 17:14 UTC 版)
中世の東ローマ帝国で、ギリシャ語で「ペルシア人」という語を用いるときは、しばしば小アジア(アナトリア)から東方に住む民族を指して用いられた。このためセルジューク朝、ルーム・セルジューク朝やオスマン朝のトルコ系民族も「ペルシア人」に含まれ、「ペルシア人」は必ずしもペルシア語を話す民族を指していない。 これは、東ローマの知識人が古代ギリシャの古典文化を尊ぶ傾向があり、周辺の異民族に対しては、古代ギリシャ時代にその地にいた民族の名前をあえて使用することを好んだためである。他にも、彼らはルーシの人々を「スキタイ人」と呼んでいたりすることもある。
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中世ギリシア語 (Medieval Greek)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 03:43 UTC 版)
「ギリシア語」の記事における「中世ギリシア語 (Medieval Greek)」の解説
東ローマ帝国で用いられた、コイネーの後継。とはいえ、すでに多くの点で現代ギリシア語に近づいていた日常の話し言葉から、古典期のアッティカ方言に倣った高度に学問的な文語までが含まれており、その意味するところは多岐にわたっている。「中世ギリシア語」とは、15世紀に帝国が終焉を迎えるまでのギリシア語全体を包括する用語と言える。帝国の公用語となった文語の多くは、文語コイネーの伝統に基づいて生まれた折衷的・中立的なものであった。コンスタンティノープルの陥落に伴ってギリシア人がイタリアに移住すると、ギリシア語は再び他のヨーロッパに紹介された。
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