中世キリキアでの独立とは? わかりやすく解説

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中世キリキアでの独立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:51 UTC 版)

アルメニアの歴史」の記事における「中世キリキアでの独立」の解説

詳細は「キリキア・アルメニア王国」を参照 キプロス島対岸位置するキリキアは、山脈囲まれ陸海要衝あり、かねてより東ローマアラブによる争奪戦の的となっていた。965年東ローマキリキア版図入れた際、東ローマ国内アルメニア人キリキア送り込み地方管理任せ方針をとった。しかし、キリキアアルメニア人官吏たちは次第世襲によって地位固め、やがて皇帝への忠誠形式だけのものへと変わっていった。そして、アルメニア本国テュルク侵攻さらされたとき、大勢アルメニア人が、このキリキアの地を亡命先として選んだ。このとき、亡命アルメニア人中核となっていたバグラトゥニ家当主ルーベン1世英語版)が、1080年キリキア新たに創始した王家」がルーベン朝(ロシア語版)である。 第1回十字軍の際には、キリキアアルメニア人たちもアンティオキア攻囲戦に際して十字軍の側に物資援助行った。しかし、その後アルメニア人たちは本格的にキリキア制圧図り12世紀末まで東ローマとの戦闘繰り広げた。さらに、ルーベン朝はローマ教皇庁神聖ローマ帝国との外交関係取り結び、第3回十字軍にも積極的な支援行った。やがてその貢献認められ1198年にレヴォン2世英語版)は、教皇神聖ローマ皇帝から正式にアルメニア王位授けられた。 キリキアアルメニア王国は、その地理的特性から貿易国家として発展した遠く中央アジアからヨーロッパに至る陸海交易路整備されジェノヴァヴェネツィアピサ都市国家通商協定結ばれたことで、タルススアダナ、マミストラ(ギリシア語版)はイタリア人多数占め国際都市となった数々港町とりわけ香辛料貿易栄え、ラジャゾ(英語版)などはアレクサンドリア比するほどの賑わいであったという。 カトリコス首都シス英語版)へと移転され十字軍との深い関係からキリキアにはフランス式行政・司法システム導入された。キリキアアルメニア王国にはアルメニア古来土地貴族制存在せず、代わって騎士階級をはじめとした西洋式封建制採用された。宮廷ではフランス語ラテン語話され貴族の間ではカトリック正教への改宗すら一般的なものとなったとはいえ、これらの西洋志向貴族以外階級には浸透せず、また商人においてはアルメニア使徒教会指導された反西洋志向がむしろ強かった。 レヴォン2世には男子がなく、1226年アルメニア王位はザベル王女の夫となった摂政家のヘトゥム1世英語版)へと受け継がれた。そしてこのヘトゥム朝(ロシア語版時代から、キリキアにもセルジューク朝モンゴルマムルーク朝の手が迫るようになった。そこで、ヘトゥムは自らモンゴル首都カラコルムまで赴き、1253年にオゴデイ・カアンと同盟結んだ周辺フランク人王朝とも姻戚関係を結び、モンゴルからの傭兵隊列加えたキリキアであったが、押し寄せるエジプト軍前には、これらの同盟もまったく歯が立たなかった。1266年マムルーク朝軍勢キリキア襲いシス火を放ち灰燼帰せしめた。 キリキア厳し租税条件のもとにマムルーク朝和平したが、ほどなく王家跡目争いから四分五裂陥ったアルメニア王には、近隣キプロス王国王族互選された貴族が就くようになり、さらに西欧化主義者民族主義者との対立ペスト流行社会の混乱拍車をかけた。そして1375年、再びキリキアマムルーク朝占領を受け、アルメニア王国滅亡した

※この「中世キリキアでの独立」の解説は、「アルメニアの歴史」の解説の一部です。
「中世キリキアでの独立」を含む「アルメニアの歴史」の記事については、「アルメニアの歴史」の概要を参照ください。

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