中世キリキアでの独立
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「アルメニアの歴史」の記事における「中世キリキアでの独立」の解説
詳細は「キリキア・アルメニア王国」を参照 キプロス島の対岸に位置するキリキアは、山脈に囲まれた陸海の要衝であり、かねてより東ローマとアラブによる争奪戦の的となっていた。965年に東ローマがキリキアを版図に入れた際、東ローマは国内のアルメニア人をキリキアへ送り込み、地方の管理を任せる方針をとった。しかし、キリキアのアルメニア人官吏たちは次第に世襲によって地位を固め、やがて皇帝への忠誠も形式だけのものへと変わっていった。そして、アルメニア本国がテュルクの侵攻にさらされたとき、大勢のアルメニア人が、このキリキアの地を亡命先として選んだ。このとき、亡命アルメニア人の中核となっていたバグラトゥニ家当主のルーベン1世(英語版)が、1080年にキリキアで新たに創始した「王家」がルーベン朝(ロシア語版)である。 第1回十字軍の際には、キリキアのアルメニア人たちもアンティオキア攻囲戦に際して十字軍の側に物資援助を行った。しかし、その後アルメニア人たちは本格的にキリキアの制圧を図り、12世紀末まで東ローマとの戦闘を繰り広げた。さらに、ルーベン朝はローマ教皇庁、神聖ローマ帝国との外交関係を取り結び、第3回十字軍にも積極的な支援を行った。やがてその貢献は認められ、1198年にレヴォン2世(英語版)は、教皇と神聖ローマ皇帝から正式にアルメニアの王位を授けられた。 キリキアのアルメニア王国は、その地理的特性から貿易国家として発展した。遠く中央アジアからヨーロッパに至る陸海の交易路が整備され、ジェノヴァ、ヴェネツィア、ピサの都市国家と通商協定が結ばれたことで、タルスス、アダナ、マミストラ(ギリシア語版)はイタリア人が多数を占める国際都市となった。数々の港町がとりわけ香辛料貿易で栄え、ラジャゾ(英語版)などはアレクサンドリアに比するほどの賑わいであったという。 カトリコスも首都シス(英語版)へと移転され、十字軍との深い関係からキリキアにはフランス式の行政・司法システムが導入された。キリキアのアルメニア王国にはアルメニア古来の土地貴族制は存在せず、代わって騎士階級をはじめとした西洋式の封建制が採用された。宮廷ではフランス語やラテン語が話され、貴族の間ではカトリックや正教への改宗すら一般的なものとなった。とはいえ、これらの西洋志向は貴族以外の階級には浸透せず、また商人層においてはアルメニア使徒教会に指導された反西洋志向がむしろ強かった。 レヴォン2世には男子がなく、1226年、アルメニア王位はザベル王女の夫となった摂政家のヘトゥム1世(英語版)へと受け継がれた。そしてこのヘトゥム朝(ロシア語版)時代から、キリキアにもセルジューク朝、モンゴルやマムルーク朝の手が迫るようになった。そこで、ヘトゥムは自らモンゴルの首都カラコルムまで赴き、1253年にオゴデイ・カアンと同盟を結んだ。周辺のフランク人王朝とも姻戚関係を結び、モンゴルからの傭兵も隊列に加えたキリキアであったが、押し寄せるエジプト軍の前には、これらの同盟もまったく歯が立たなかった。1266年にマムルーク朝の軍勢はキリキアを襲い、シスに火を放ち灰燼に帰せしめた。 キリキアは厳しい租税条件のもとにマムルーク朝と和平したが、ほどなく王家は跡目争いから四分五裂に陥った。アルメニア王には、近隣のキプロス王国の王族や互選された貴族が就くようになり、さらに西欧化主義者と民族主義者との対立やペストの流行は社会の混乱に拍車をかけた。そして1375年、再びキリキアはマムルーク朝の占領を受け、アルメニア王国は滅亡した。
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