中世グルジアとその黄金時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 中世グルジアとその黄金時代の意味・解説 

中世グルジアとその黄金時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:30 UTC 版)

グルジアの歴史」の記事における「中世グルジアとその黄金時代」の解説

アラブ支配下グルジア英語版)」、「グルジア王国」、「バグラティオニ朝(英語版)」、「グルジア正教会」、および「グルジアの黄金時代」も参照 ペルシアメソポタミア支配したサーサーン朝ゾロアスター教国教としており、サーサーン朝勢力カフカス地方におよぶとキリスト教勢力ゾロアスター教勢力はたがい抗争繰り返した523年西グルジアのラジカ王国キリスト教国教定めると、サーサーン朝がこれに対して軍を派遣し527年から533年までつづくラジカ戦争英語版)の結果サーサーン朝黒海沿岸まで支配領域拡大した6世紀のラジカ王国最終的に東ローマ帝国ビザンツ帝国)、東のイベリア王国サーサーン朝それぞれ併合されサーサーン朝ホスロー1世イベリア王政廃止した。これにより、イベリア王家であったホスロヴ家は退潮余儀なくされた。なお、このころグルジアにはキリスト教信仰強化するためにメソポタミアから13人の修道士アッシリア十三士」が派遣されたといわれている。 錯綜した状況はなおもつづき、7世紀初頭自立動き見せたイベリア対しビザンツ皇帝ヘラクレイオス北方遊牧民ハザール同盟して遠征おこなった627年から629年にかけてはサーサーン朝イベリア王国連合軍西突厥東ローマ帝国・ラジカ連合軍との間でトビリシ包囲戦戦われ627年には東ローマ結んだブルガール人トビリシ占領している。 642年ニハーヴァンドの戦い以降イベリアではサーサーン朝影響力後退し7世紀後半からは新興イスラーム奉ずるアラブ人支配受けたムスリム勢力当初正統カリフによって指導されていたが、やがて世襲ウマイヤ朝アッバース朝大帝国形成しイベリアカリフの領臣である各州統治者支配受けた717年にはアラブ艦隊コンスタンティノープル包囲するなど東ローマ帝国もまた危機陥った736年から738年にかけて、トビリシは「ムスリム征服英語版)」を受け、これによってトビリシ首長国英語版)が成立したこれにともないザカフカスにもイスラーム教義もたらされたが、広い山地帯をかかえるグルジアへの流入部分的なものにとどまりキリスト教信仰守られた。750年グルジア正教会自治教会となり、9世紀から10世紀にかけてはカフカス地域布教中心担った8世紀後半には死後列聖されたゴート人イオアンニスイベリアに赴き、主教に叙聖されている。 764年グルジア北方ハザールから再び侵略受けた。かつてラジカ王国があったグルジア西部では東ローマ皇帝直臣となったアブハジア人が次第強勢となり、アンチャバヅェ家のアブハジアレオン1世英語版)は8世紀末に皇帝から王号許可された。レオン1世の母はハザール王女、妻はカルトリ大公の娘であったことからハザールとも良好な関係を保ったうえで「メグレル人の大公」を兼ね子孫王統引き継いだ。アンチャバヅェ家のアブハジア王国英語版)は9世紀中ごろから10世紀中ごろにかけてが最盛期で、東グルジア一部にも勢力およぼしたほかアルメニア国政介入するほどの力をもった。 グルジア東部では、イベリア公国のバグラティオニ家(英語版)が台頭し9世紀初頭には、この家から大公アショト1世英語版)(在位:813年-826年/830年)が現れた。853年グルジアは再びアラブ支配下置かれたが、バグラティオニ家はイスラム帝国東ローマ退潮乗じて徐々に自立性強めていった。 アルメニアでは、バグラトゥニ家英語版)のアルメニア大公アショト1世英語版)(イベリア大公アショト1世とは別人)がアッバース朝によって「アルメニアグルジアコーカサス大公」の位を許され885年にはアルメニア諸侯によってアルメニア王推戴された。こうして、カリフ皇帝双方承認の下、アッバース朝版図アルメニア王国再興された。東ローマ帝国ではこれに対抗するため、908年アルメニア王領内ヴァン湖南東にあったガギク・アルツルニ(英語版)に王号をあたえ、ヴァスプラカン王国英語版)が成立した。東ローマ・イスラム双方角逐は、こうして拡大されアルメニア王国のなかで再燃することになり、結局いくつも小国分立する状況もたらされることとなったこうしたなか、アルメニア王アショト1世は、西南グルジアタオ英語版)に本拠置いて東ローマ皇帝からクロバラテスすなわち「宮殿守護者」の称号獲得するのに成功した。なお、グルジア最初の歴史書『グルジア改宗』が書かれたのは9世紀こととされている。 10世紀半ばになると、アッバース朝繁栄にもかげりがみえるようになる一方8世紀中葉以降再建され東ローマ帝国マケドニア朝下で最盛期をむかえ、10世紀中葉にはクレタ島961年)、キプロス島965年)、アンティオキア969年)などを奪回したこうしたなか、グルジアではイベリア大公グルゲン(英語版)があらわれアブハジア王女のグランドゥフトと結婚イベリアアブハジア領域2人の息子バグラト3世英語版)に継承された。バグラド3世は、アルメニア王のアショトの養子となって将来地位をみずから保障し975年には東部グルジアカルトリ地方宗主権をも獲得して976年バグラト朝(英語版)のグルジア王国建てた1001年には義父アショトからアルメニア南西グルジアを、1008年には実父グルゲンから南西グルジア残部受け取り、他の諸侯との抗争にも打ち勝って11世紀はじめにカヘティ地方を除く全グルジア諸公国を統一し西部グルジアクタイシ首都とする中世グルジア王国隆盛がここに始まった。 バグラト3世クタイシ大聖堂バグラティ大聖堂)を創建し1010年にはカヘティ地方をも支配下収めた。ただし、東部要地トビリシ依然イスラーム支配下にあった。彼はまた芸術振興にも尽力し各地教会建立した10世紀から11世紀にかけてのグルジア王国成立期には、グルジア正教会がバグラティオニ家の王朝支えた聖人として知られるイベリアのヨアネ活躍し、レオンティ・ムロヴェリ(英語版)によって『グルジア年代記英語版)』が書かれたのもこの頃のことである。グルジア正教会首座主教は、1008年以降イベリアコーカサス)のカトリコス・総主教」の称号有するようになった東方正教会信仰は、グルジア正教奉ずる他の諸地域とを結ぶ政治的な絆となり、10世紀から13世紀にかけてのグルジア王家東ローマ帝国キエフ大公国アラニア北オセチア)などの王侯貴族とのあいだでさかんに婚姻関係を結び、東ヨーロッパ各地域との精神的結びつき強めたなかでも東ローマニケフォロス3世ボタネイアテス皇后となったマリア・バグラティオニは有名である。 聖地イェルサレムギリシャの「聖山アトス山にもグルジア人僧侶のための修道院設営され、正教会宣教師もまた現在のオセチアや西ダゲスタン山岳地帯さかんに伝道活動展開した。その遺構今日ムスリム居住地域山中確認することができる。また、グルジア守護聖人とされる聖ゲオルギオス竜退治伝説一説には、11世紀から12世紀にかけての成立とされている。 バグラト3世の子ギオルギ1世英語版)は古都ムツヘタスヴェティツホヴェリ大聖堂修復おこないギオルギ1世の子のバグラト4世英語版)は1045年アルメニア首都アニ(現トルコ共和国)を制圧した1057年シリアアンティオキア開かれた地方教会会議では、グルジア正教会自治教会資格有することが公認されている。 11世紀後半にはトルコ人勢力中央アジアペルシア大部分をふくむ地域広大な遊牧帝国セルジューク朝建設したが、グルジアもその侵略を受けるようになり、バグラト4世治下1063年には南西グルジアが、1068年には東グルジアセルジューク朝によって制圧された。 「建設王」と呼ばれたダヴィド4世即位したのは1089年、父王ギオルギ2世英語版)より譲位されてのことであったダヴィド4世は、北カフカスキプチャク人移住させて親衛隊組織し軍制改革をおこなってグルジア強固な国家改造し1080年にはセルジューク朝との戦いで勝利を収めた1092年宰相ニザームルムルク第3スルタンマリク・シャー相次いで死去したのちのセルジューク朝はさらに斜陽傾向強めたため、ダヴィド4世1096年には貢納支払い停止した12世紀に入ると、ダヴィド4世クタイシ郊外のイメレティア丘陵ゲラティ修道院付属王立学校アカデミー)を創立した。この王立学校グルジア代表する科学者神学者哲学者擁し、のちにトビリシに都が遷ってからも、17世紀に至るまでグルジア文教中心として栄えたまた、東ローマ首都コンスタンティノープル多数留学生送り学芸振興努めたダヴィド4世晩年1121年、ディドゴリの戦い英語版)ではセルジューク軍を相手勝利しシルワン英語版)と北アルメニア領土獲得し、さらに1122年にはムスリム勢力支配されていた要衝トビリシ奪還してここに都を遷した。 12世紀後半のギオルギ3世英語版)も1156年セルジューク朝攻撃してこれに勝利し1161年から1162年にはアルメニアにも侵攻しアニとドヴィンを占領するなど強勢ほこったダヴィド4世治世以降西ヨーロッパキリスト教国がこぞって十字軍遠征加わったことはイスラーム勢力軍事力集中阻害要因となり、キリスト教であったグルジアはその恩恵受けた。 ギオルギ3世王女1178年に父王との共同統治者1184年正式に王として即位したタマル女王時代、バグラト朝はザカフカス全域支配する強国発展した1194年から1204年にかけてはセルジューク朝勝利してアルメニア南部保護領としたほか、1195年には現アゼルバイジャンシャムコルの戦い勝利して同地支配した1201年から1203年にかけてはアルメニアアニとドヴィンを再併合し、さらに現在のトルコ共和国北部占領したまた、1204年イタリアヴェネチア商人策謀によって第4回十字軍コンスタンティノープル占領し東ローマ帝国没落した際には、皇帝一族が現トルコ領内に建てた亡命政権トレビゾンド帝国建国援助している。 タマル女王時代は、その領域カスピ海沿岸アゼルバイジャンからチェルケシアトルコ領エルズルムからガンザ(キロババート)にまで広がる、汎カフカス帝国かたちづくりトレビゾンドおよびシルワンがその同盟国ないし藩属国であったタマル時代は、文化・学術の面でもグルジア王国最盛期であり、多く修道院寄進され、とくに文学分野充実教会建築発展顕著であった。『グルジア年代記』が編まれまた、とくにタマル女王仕えた官吏詩人ショタ・ルスタヴェリ活動がよく知られている。ルスタヴェリによるグルジア語の『豹皮の騎士』はタマル女王捧げられた、1,500上のから成る長編叙事詩で、3人の勇士誘拐され女性救いアラブイランインド中国舞台繰り広げられる、愛と正義と自由をうたいあげ傑作として知られ現代では日本語を含む世界各国語に翻訳されている。 なお、大カフカス山脈南麓アッパー・スヴァネティの地に住んでいたスヴァン族(英語版)も、12世紀にはグルジア組み入れられ従前土着宗教捨てて熱心なキリスト教信者となった。スヴァン族は古来防御塔の付設された住居要塞築いて外敵抵抗してきたが、この防御遺構現在世文化遺産登録されている。

※この「中世グルジアとその黄金時代」の解説は、「グルジアの歴史」の解説の一部です。
「中世グルジアとその黄金時代」を含む「グルジアの歴史」の記事については、「グルジアの歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「中世グルジアとその黄金時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「中世グルジアとその黄金時代」の関連用語

中世グルジアとその黄金時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



中世グルジアとその黄金時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのグルジアの歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS