中世グルジアとその黄金時代
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「グルジアの歴史」の記事における「中世グルジアとその黄金時代」の解説
「アラブ支配下のグルジア(英語版)」、「グルジア王国」、「バグラティオニ朝(英語版)」、「グルジア正教会」、および「グルジアの黄金時代」も参照 ペルシアとメソポタミアを支配したサーサーン朝はゾロアスター教を国教としており、サーサーン朝の勢力がカフカス地方におよぶとキリスト教勢力とゾロアスター教勢力はたがいに抗争を繰り返した。523年に西グルジアのラジカ王国がキリスト教を国教に定めると、サーサーン朝がこれに対して軍を派遣し、527年から533年までつづくラジカ戦争(英語版)の結果、サーサーン朝は黒海沿岸まで支配領域を拡大した。6世紀のラジカ王国は最終的に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、東のイベリア王国はサーサーン朝にそれぞれ併合され、サーサーン朝のホスロー1世はイベリアの王政を廃止した。これにより、イベリア王家であったホスロヴ家は退潮を余儀なくされた。なお、このころ、グルジアにはキリスト教信仰を強化するためにメソポタミアから13人の修道士「アッシリア十三士」が派遣されたといわれている。 錯綜した状況はなおもつづき、7世紀初頭、自立の動きを見せたイベリアに対し、ビザンツ皇帝ヘラクレイオスは北方の遊牧民、ハザールと同盟して遠征をおこなった。627年から629年にかけてはサーサーン朝・イベリア王国連合軍と西突厥・東ローマ帝国・ラジカ連合軍との間でトビリシ包囲戦が戦われ、627年には東ローマと結んだブルガール人がトビリシを占領している。 642年のニハーヴァンドの戦い以降のイベリアではサーサーン朝の影響力が後退し、7世紀後半からは新興のイスラームを奉ずるアラブ人の支配を受けた。ムスリム勢力は当初正統カリフによって指導されていたが、やがて世襲のウマイヤ朝、アッバース朝が大帝国を形成し、イベリアはカリフの領臣である各州の統治者の支配を受けた。717年にはアラブ艦隊がコンスタンティノープルを包囲するなど東ローマ帝国もまた危機に陥った。736年から738年にかけて、トビリシは「ムスリムの征服(英語版)」を受け、これによってトビリシ首長国(英語版)が成立した。これにともない、ザカフカスにもイスラームの教義がもたらされたが、広い山岳地帯をかかえるグルジアへの流入は部分的なものにとどまり、キリスト教信仰が守られた。750年、グルジア正教会は自治教会となり、9世紀から10世紀にかけてはカフカス地域の布教の中心を担った。8世紀後半には死後列聖されたゴート人のイオアンニスがイベリアに赴き、主教に叙聖されている。 764年、グルジアは北方のハザールから再び侵略を受けた。かつてラジカ王国があったグルジア西部では東ローマ皇帝の直臣となったアブハジア人が次第に強勢となり、アンチャバヅェ家のアブハジア公レオン1世(英語版)は8世紀末に皇帝から王号を許可された。レオン1世の母はハザール王女、妻はカルトリ大公の娘であったことからハザールとも良好な関係を保ったうえで「メグレル人の大公」を兼ね、子孫に王統を引き継いだ。アンチャバヅェ家のアブハジア王国(英語版)は9世紀中ごろから10世紀中ごろにかけてが最盛期で、東グルジアの一部にも勢力をおよぼしたほかアルメニアの国政に介入するほどの力をもった。 グルジア東部では、イベリア公国のバグラティオニ家(英語版)が台頭し、9世紀初頭には、この家から大公アショト1世(英語版)(在位:813年-826年/830年)が現れた。853年、グルジアは再びアラブ支配下に置かれたが、バグラティオニ家はイスラム帝国や東ローマの退潮に乗じて徐々に自立性を強めていった。 アルメニアでは、バグラトゥニ家(英語版)のアルメニア大公アショト1世(英語版)(イベリア大公アショト1世とは別人)がアッバース朝によって「アルメニア、グルジア、コーカサスの大公」の位を許され、885年にはアルメニアの諸侯によってアルメニア王に推戴された。こうして、カリフと皇帝の双方の承認の下、アッバース朝版図のアルメニア王国が再興された。東ローマ帝国ではこれに対抗するため、908年、アルメニア王領内のヴァン湖南東にあったガギク・アルツルニ(英語版)に王号をあたえ、ヴァスプラカン王国(英語版)が成立した。東ローマ・イスラム双方の角逐は、こうして拡大されたアルメニア王国のなかで再燃することになり、結局いくつもの小国が分立する状況がもたらされることとなった。こうしたなか、アルメニア王アショト1世は、西南グルジアのタオ(英語版)に本拠を置いて、東ローマ皇帝からクロバラテスすなわち「宮殿の守護者」の称号を獲得するのに成功した。なお、グルジア最初の歴史書『グルジアの改宗』が書かれたのは9世紀のこととされている。 10世紀半ばになると、アッバース朝の繁栄にもかげりがみえるようになる一方、8世紀中葉以降再建された東ローマ帝国はマケドニア朝下で最盛期をむかえ、10世紀中葉にはクレタ島(961年)、キプロス島(965年)、アンティオキア(969年)などを奪回した。こうしたなか、グルジアではイベリア大公グルゲン(英語版)があらわれ、アブハジア王女のグランドゥフトと結婚、イベリアとアブハジアの領域は2人の息子バグラト3世(英語版)に継承された。バグラド3世は、アルメニア王のアショトの養子となって将来の地位をみずから保障し、975年には東部グルジアのカルトリ地方の宗主権をも獲得して976年バグラト朝(英語版)のグルジア王国を建てた。1001年には義父アショトからアルメニアと南西グルジアを、1008年には実父グルゲンから南西グルジア残部を受け取り、他の諸侯との抗争にも打ち勝って11世紀はじめにはカヘティ地方を除く全グルジアの諸公国を統一し、西部グルジアのクタイシを首都とする中世グルジア王国の隆盛がここに始まった。 バグラト3世はクタイシに大聖堂(バグラティ大聖堂)を創建し、1010年にはカヘティ地方をも支配下に収めた。ただし、東部の要地トビリシは依然イスラームの支配下にあった。彼はまた芸術振興にも尽力し、各地に教会を建立した。 10世紀から11世紀にかけてのグルジア王国成立期には、グルジア正教会がバグラティオニ家の王朝を支えた。聖人として知られるイベリアのヨアネが活躍し、レオンティ・ムロヴェリ(英語版)によって『グルジア年代記(英語版)』が書かれたのもこの頃のことである。グルジア正教会の首座主教は、1008年以降「イベリア(コーカサス)のカトリコス・総主教」の称号を有するようになった。東方正教会の信仰は、グルジアと正教を奉ずる他の諸地域とを結ぶ政治的な絆となり、10世紀から13世紀にかけてのグルジア王家は東ローマ帝国、キエフ大公国、アラニア(北オセチア)などの王侯貴族とのあいだでさかんに婚姻関係を結び、東ヨーロッパ各地域との精神的結びつきを強めた。なかでも東ローマのニケフォロス3世ボタネイアテスの皇后となったマリア・バグラティオニは有名である。 聖地イェルサレムやギリシャの「聖山」アトス山にもグルジア人僧侶のための修道院が設営され、正教会の宣教師もまた現在のオセチアや西ダゲスタンの山岳地帯でさかんに伝道活動を展開した。その遺構は今日ムスリム居住地域の山中で確認することができる。また、グルジアの守護聖人とされる聖ゲオルギオスの竜退治伝説も一説には、11世紀から12世紀にかけての成立とされている。 バグラト3世の子ギオルギ1世(英語版)は古都ムツヘタのスヴェティツホヴェリ大聖堂の修復をおこない、ギオルギ1世の子のバグラト4世(英語版)は1045年、アルメニアの首都アニ(現トルコ共和国)を制圧した。1057年にシリアのアンティオキアで開かれた地方教会会議では、グルジア正教会が自治教会資格を有することが公認されている。 11世紀後半にはトルコ人勢力が中央アジアやペルシアの大部分をふくむ地域に広大な遊牧帝国セルジューク朝を建設したが、グルジアもその侵略を受けるようになり、バグラト4世治下の1063年には南西グルジアが、1068年には東グルジアがセルジューク朝によって制圧された。 「建設王」と呼ばれたダヴィド4世が即位したのは1089年、父王ギオルギ2世(英語版)より譲位されてのことであった。ダヴィド4世は、北カフカスのキプチャク人を移住させて親衛隊を組織し、軍制改革をおこなってグルジアを強固な国家に改造し、1080年にはセルジューク朝との戦いで勝利を収めた。1092年に宰相ニザームルムルクと第3代スルタンのマリク・シャーが相次いで死去したのちのセルジューク朝はさらに斜陽傾向を強めたため、ダヴィド4世は1096年には貢納の支払いを停止した。 12世紀に入ると、ダヴィド4世はクタイシ郊外のイメレティア丘陵にゲラティ修道院と付属の王立学校(アカデミー)を創立した。この王立学校はグルジアを代表する科学者、神学者、哲学者を擁し、のちにトビリシに都が遷ってからも、17世紀に至るまでグルジアの文教の中心として栄えた。また、東ローマの首都コンスタンティノープルに多数の留学生を送り、学芸の振興に努めた。ダヴィド4世晩年の1121年、ディドゴリの戦い(英語版)ではセルジューク軍を相手に勝利し、シルワン(英語版)と北アルメニアの領土を獲得し、さらに1122年にはムスリム勢力に支配されていた要衝トビリシを奪還してここに都を遷した。 12世紀後半のギオルギ3世(英語版)も1156年にセルジューク朝を攻撃してこれに勝利し、1161年から1162年にはアルメニアにも侵攻してアニとドヴィンを占領するなど強勢をほこった。ダヴィド4世治世期以降、西ヨーロッパのキリスト教国がこぞって十字軍遠征に加わったことはイスラーム勢力の軍事力集中の阻害要因となり、キリスト教国であったグルジアはその恩恵を受けた。 ギオルギ3世の王女で1178年に父王との共同統治者、1184年に正式に王として即位したタマル女王の時代、バグラト朝はザカフカス全域を支配する強国に発展した。1194年から1204年にかけてはセルジューク朝に勝利してアルメニア南部を保護領としたほか、1195年には現アゼルバイジャンのシャムコルの戦いに勝利して同地を支配した。1201年から1203年にかけてはアルメニアのアニとドヴィンを再併合し、さらに現在のトルコ共和国北部を占領した。 また、1204年、イタリアのヴェネチア商人の策謀によって第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領し、東ローマ帝国が没落した際には、皇帝一族が現トルコ領内に建てた亡命政権トレビゾンド帝国の建国を援助している。 タマル女王時代は、その領域がカスピ海沿岸のアゼルバイジャンからチェルケシア、トルコ領エルズルムからガンザ(キロババート)にまで広がる、汎カフカス帝国をかたちづくり、トレビゾンドおよびシルワンがその同盟国ないし藩属国であった。 タマル時代は、文化・学術の面でもグルジア王国の最盛期であり、多くの修道院が寄進され、とくに文学分野の充実と教会建築の発展が顕著であった。『グルジア年代記』が編まれ、また、とくにタマル女王に仕えた官吏で詩人のショタ・ルスタヴェリの活動がよく知られている。ルスタヴェリによるグルジア語の『豹皮の騎士』はタマル女王に捧げられた、1,500以上の連から成る長編叙事詩で、3人の勇士が誘拐された女性を救い、アラブ、イラン、インド、中国を舞台に繰り広げられる、愛と正義と自由をうたいあげた傑作として知られ、現代では日本語を含む世界各国語に翻訳されている。 なお、大カフカス山脈の南麓アッパー・スヴァネティの地に住んでいたスヴァン族(英語版)も、12世紀にはグルジアに組み入れられ、従前の土着宗教を捨てて熱心なキリスト教信者となった。スヴァン族は古来防御塔の付設された住居で要塞村を築いて外敵に抵抗してきたが、この防御塔遺構は現在世界文化遺産に登録されている。
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