東グルジアとは? わかりやすく解説

東グルジア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 18:49 UTC 版)

ロシア帝国下のグルジア」の記事における「東グルジア」の解説

ロシアがギオルギエフスク条約破ったにも関わらずグルジア統治者ロシア唯一の希望捉え引き続きロシア政府すがったペルシアトビリシ放火略奪して2万人が命を落とした結果もたらした。しかし、アーガー・モハンマド・シャー1797年シュシャ英語版)で暗殺されたため、ペルシアグルジア対す統制弱められた。翌年、エレクレ2世死去病弱な王子ギオルギ12世(英語版)が即位した。 ギオルギ12世が1800年12月28日死去すると、彼の息子ダヴィト・バグラティオニ(英語版)とイウロニ・バグラティオニ(英語版グルジア語版)(イウロン・バトニシュヴィリ)の争いグルジア二分した。しかし、ツァーリパーヴェル1世はすでに2人とも即位させず、王国廃してロシア直に支配することを決定していた。彼はカルトリ・カヘティ王国ロシア帝国組み込む勅令発しその後継者のアレクサンドル1世1801年9月12日勅令再確認した。グルジアの駐サンクトペテルブルク大使ガルセヴァン・チャヴチャヴァゼ(英語版)はロシア首相アレクサンドル・クラーキン抗議文を送りつけた。1801年5月ロシアのカール・ハインリヒ・フォン・クノールリング将軍はバトニシュヴィリ(英語版)のダヴィト英語版)を追い出し、イヴァン・ペトロヴィチ・ラザレフ(ロシア語版率い暫定政府成立した。クノールリングはグルジア王家男子全員女子一部ロシア追放する秘密命令受けていた。グルジア貴族一部命令抵抗したが、1802年4月にクノールリングが貴族たちをトビリシシオニ大聖堂英語版)に禁固し、ロシア皇帝対す忠誠の誓い強制した。それでも拒否した貴族逮捕された。 ロシアグルジア橋頭堡として使い南カフカースへさらに拡張した。これにガージャール朝ペルシアオスマン帝国脅威感じた1804年、パヴレ・ツィツィシュヴィリ(英語版将軍ロシアカフカース軍を率いてギャンジャ侵攻1804年から1813年までのロシア・ペルシャ戦争おこしたロシア同時期に西グルジアにおける拡張めぐって1806年から1812年までの露土戦争戦っていた。グルジアでは志願兵としてロシア軍従軍した者も、ロシア対し反乱した者もいた(1804年にはカルトリ・カヘティの高地地方大規模な反乱おこった)。戦争自体ロシア両方とも勝利オスマンとはブカレスト条約を、ペルシアとはゴレスターン条約締結してロシアによるグルジア併合認めさせた。

※この「東グルジア」の解説は、「ロシア帝国下のグルジア」の解説の一部です。
「東グルジア」を含む「ロシア帝国下のグルジア」の記事については、「ロシア帝国下のグルジア」の概要を参照ください。

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