東グルジア
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「ロシア帝国下のグルジア」の記事における「東グルジア」の解説
ロシアがギオルギエフスク条約を破ったにも関わらず、グルジアの統治者はロシアを唯一の希望と捉え、引き続きロシア政府にすがった。ペルシアはトビリシで放火、略奪して、2万人が命を落とした結果をもたらした。しかし、アーガー・モハンマド・シャーが1797年にシュシャ(英語版)で暗殺されたため、ペルシアのグルジアに対する統制が弱められた。翌年、エレクレ2世が死去、病弱な王子ギオルギ12世(英語版)が即位した。 ギオルギ12世が1800年12月28日に死去すると、彼の息子ダヴィト・バグラティオニ(英語版)とイウロニ・バグラティオニ(英語版、グルジア語版)(イウロン・バトニシュヴィリ)の争いがグルジアを二分した。しかし、ツァーリのパーヴェル1世はすでに2人とも即位させず、王国を廃してロシアが直に支配することを決定していた。彼はカルトリ・カヘティ王国をロシア帝国に組み込む勅令を発し、その後継者のアレクサンドル1世も1801年9月12日に勅令を再確認した。グルジアの駐サンクトペテルブルク大使ガルセヴァン・チャヴチャヴァゼ(英語版)はロシア首相アレクサンドル・クラーキンに抗議文を送りつけた。1801年5月、ロシアのカール・ハインリヒ・フォン・クノールリング将軍はバトニシュヴィリ(英語版)のダヴィト(英語版)を追い出し、イヴァン・ペトロヴィチ・ラザレフ(ロシア語版)率いる暫定政府を成立した。クノールリングはグルジア王家の男子全員と女子の一部をロシアに追放する秘密命令も受けていた。グルジア貴族の一部は命令に抵抗したが、1802年4月にクノールリングが貴族たちをトビリシのシオニ大聖堂(英語版)に禁固し、ロシア皇帝に対する忠誠の誓いを強制した。それでも拒否した貴族は逮捕された。 ロシアはグルジアを橋頭堡として使い、南カフカースへさらに拡張した。これにガージャール朝ペルシアとオスマン帝国は脅威に感じた。1804年、パヴレ・ツィツィシュヴィリ(英語版)将軍はロシアのカフカース軍を率いてギャンジャに侵攻、1804年から1813年までのロシア・ペルシャ戦争をおこした。ロシアは同時期に西グルジアにおける拡張をめぐって1806年から1812年までの露土戦争を戦っていた。グルジアでは志願兵としてロシア軍に従軍した者も、ロシアに対し反乱した者もいた(1804年にはカルトリ・カヘティの高地地方で大規模な反乱がおこった)。戦争自体はロシアが両方とも勝利、オスマンとはブカレスト条約を、ペルシアとはゴレスターン条約を締結してロシアによるグルジア併合を認めさせた。
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