アーガー・モハンマド・シャーとは? わかりやすく解説

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アーガー・モハンマド・シャー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/10 16:59 UTC 版)

アーガー・モハンマド・シャー
آقا محمد خان قاجار
ガージャール朝
シャー
在位 1779年 - 1797年6月17日
戴冠式 1796年3月、ムガン平原
別号 シャーハンシャー

全名 アーガー・モハンマド・ハーン・ガージャール
出生 1742年3月14日
アフシャール朝ゴルガーン
死去 1797年6月17日
ガージャール朝、シュシャ
埋葬 イラクナジャフ、イマーム・アリー・モスク
子女 なし
家名 ガージャール家
王朝 ガージャール朝
父親 ムハンマド・ハサン・ハーン英語版
母親 ジーラン・カナム
宗教 イスラム教シーア派十二イマーム派
サイン
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アーガー・モハンマド・シャーペルシア語: آقا محمد شاه, Agaa Muhammad Shah、1742年3月14日 - 1797年6月17日)は、イランガージャール朝の初代シャー(在位:1779年 - 1797年6月17日)。即位前はアーガー・モハンマド・ハーンと呼ばれた。

生涯

去勢された少年

父はトルコガージャール族英語版の族長として勢力を誇ったムハンマド・ハサン・ハーン英語版である。生年は1734年頃ともいわれている。

ガージャール族は11世紀にイランに進出し、サファヴィー朝の支配下で過ごしたが、王朝崩壊後はアフシャール朝ナーディル・シャーに従った。1747年にナーディル・シャーが部下の反乱で暗殺されると、ムハンマド・ハサンはカスピ海南岸一帯に独立勢力を築いた。

だが、ナーディル・シャーの跡を継いだアーディル・シャーがガージャール族の勢力拡大を憂いて鎮圧に乗り出す。このときにアーガー・モハンマド・ハーンは捕らえられ、アーディルの命令で去勢されてしまった。時に数えで14歳(もしくは6歳)の時である。

父の死と人質生活

アフシャール朝はその後、アーディル・シャーが処刑されるなどして衰退した。代わって勢力を強めたのがザンド朝カリーム・ハーンとガージャール族のムハンマド・ハサンであった。両者はイランの覇権をめぐって激突し一時はムハンマドが優勢だったが、1757年シーラーズの戦いで敗退するムハンマドの勢力は急速に衰退し、1759年にカリームによって殺害された。このとき、アーガー・モハンマド・ハーンはカリームに捕らえられ、人質としてシーラーズの宮廷に連れてこられた。

アーガー・モハンマド・ハーンはカリーム・ハーンに大変寵愛され、厚遇を受けた。またカリームの養育を受けて学問に励んだといわれる。

覇権争い

1779年にカリームが死ぬと、ザンド朝で後継者争いが起こった。アーガー・モハンマド・ハーンはこうなることを察知していたのか、カリーム没後の翌日にはシーラーズから逃亡する。そしてカージャール族をまとめ上げてイランの覇権争いに加わった。

1785年までには父時代のカスピ海南岸からエルブルズ山脈の一帯に勢力を確立した。そしてイラン中央部の制圧を目論み、2年後にはイスファハーンテヘランを奪い、テヘランを都にした。1794年にはファールスケルマーンを制圧し、ルトフ・アリー・ハーンを捕らえて処刑し、ザンド朝を滅ぼした。

その後、イランの北西部に進出。またイランの北東部にある要衝のマシュハドにも進出する。だが、この頃はロシア帝国による南下政策が脅威になっており、アーガーは1795年にロシアと関係の深かったグルジアに攻め込んでロシア帝国の脅威を排除した。

1796年にはマシュハド一帯を支配していたアフシャール朝のシャー・ルフ(ナーディル・シャーの孫)を捕らえて殺し、アフシャール朝をも滅ぼした。そしてイランのほぼ全土を制圧したことを背景にして、ムガン平原で戴冠式を行ない、カージャール朝を創始した。

最期

1797年、アーガー・モハンマド・シャーはロシア帝国の南下を抑えるため、コーカサスに遠征した(en:Persian Expedition of 1796)。ところがこのとき、アーガーは2人の召使が自分の居室で喧嘩をしているのを目撃する。アーガーは激怒して召使を処刑するように命じたが、部下の取り成しでその召使を許してしまい、さらにその召使にそのまま自分の身の回りの世話まで任せてしまった。

だが、召使はアーガー・モハンマド・シャーの気が変わることを恐れた。そして6月17日、召使はアーガーが寝ていたところを刺殺したという。没年齢は64歳あるいは56歳。

少年時代に去勢されていたためにアーガー・モハンマド・シャーには実子が無かった。このため、弟のフサイン・クリー・ハーン(フサイン・クリーは1777年に早世)の息子であるファトフ・アリー・シャーが跡を継いだ。

人物・逸話

  • アーガーは残虐な一面があったと伝わる。自らを去勢したアフシャール朝と父を殺したザンド朝の最後の君主をいずれも捕らえて拷問にかけた後に処刑している。また、チフリスやケルマーンで市民を虐殺したり大量に奴隷にしたりしている。

画像



アーガー・モハンマド・シャー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 09:24 UTC 版)

ガージャール朝」の記事における「アーガー・モハンマド・シャー」の解説

アーカー・ムハンマド・ハーンテヘラン戻り1796年シャーとして戴冠、アーガー・モハンマド・シャーを名乗った以降現代ペルシア音で記す)。続いて北東ホラーサーン方面に目を転じてマシュハド確保、さらに名目的命脈保っていたアフシャール朝滅ぼし、ほぼサファヴィー朝領域確保する至った1796年夏、ロシアグルジア遠征軍起こしたが(en:Persian Expedition of 1796)、エカチェリーナ2世死去伴って中止された。アーガー・モハンマド・シャーは翌年春、ブハラ遠征代えてグルジア安定のためにテヘラン出発したが、その途上1797年6月19日暗殺された。グルジア問題以降ガージャール朝歴代懸案としてロシアとの対立もたらし、やがてロシア・ペルシア戦争第一次ロシア・ペルシア戦争第二次ロシア・ペルシア戦争)を招くことになる。

※この「アーガー・モハンマド・シャー」の解説は、「ガージャール朝」の解説の一部です。
「アーガー・モハンマド・シャー」を含む「ガージャール朝」の記事については、「ガージャール朝」の概要を参照ください。

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