背景:1801年以前のグルジア・ロシア関係とは? わかりやすく解説

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背景:1801年以前のグルジア・ロシア関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 18:49 UTC 版)

ロシア帝国下のグルジア」の記事における「背景:1801年以前のグルジア・ロシア関係」の解説

16世紀までキリスト教であったグルジア王国はいくつかの小王国と公国分裂し、それらをめぐって隣国である2大イスラム教国オスマン帝国サファヴィー朝ペルシア争った16世紀後半には北方第3帝国勢力現れた。それはすなわち、グルジア同じく正教国のモスクワ大公国である。グルジアカヘティ王国英語版)とモスクワの間の外交1558年始まり1589年にはモスクワのツァーリフョードル1世カヘティモスクワ保護下に置くことを提案した。しかし、援助実質伴わずロシアオスマンペルシアの支配挑戦するには南カフカース地方が遠すぎたため、この時は沙汰止みとなったロシア本格的にカフカース山脈の南に参入してくるのは18世紀のはじめの出来事であった1722年ピョートル1世サファヴィー朝混乱衰退に付け込んで遠征行いカルトリ王でサファヴィー朝から総督任命されヴァフタング6世とも同盟した。しかし両軍連携失敗しロシア軍北へ撤退してしまったためグルジア反乱サファヴィー朝鎮圧された。ヴァフタング6世ロシア亡命、そこで余生終えた時代下って1762年から1798年までカルトリ・カヘティ王国の王であったエレクレ2世英語版)は国をオスマンペルシア攻撃から守るためにロシア助け求めた西グルジアのイメレティ王国英語版)も同じくロシア連絡取りオスマン帝国から身を守ろうとした。ロシアエカチェリーナ女帝は対オスマンペルシア戦争のためにグルジア味方引き入れようとしたが、グルジアにはわずかな軍しか派遣しなかった。1769年から1772年まで、ゴットロープ・ハインリヒ・フォン・トートレーベン率い少数ロシア軍はイメレティとカルトリ・カヘティに侵入したオスマン軍戦った1783年、エレクレ2世ロシアとギオルギエフスク条約英語版)を締結してロシア保護される代わりに他国宗主権否定した。しかし、1787年露土戦争が再び勃発すると、ロシアグルジアから軍を引き上げてほかの戦場投入してしまい、エレクレ2世ロシア軍という強力な後ろ盾失った1795年新しく即位したペルシアシャーアーガー・モハンマド・シャーはエレクレ2世最後通牒発しロシアとの関係を切るか侵攻さらされるかを選ばせた。エレクレ2世ロシア援軍をあてにして最後通牒無視したが、ロシア軍は来なかった。アーガー・モハンマド・シャー有言実行して首都トビリシ占領破壊して英語版)、トビリシはほぼ廃墟化した

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