背景・807年までの包囲
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「トルトーサ包囲戦 (808年-809年)」の記事における「背景・807年までの包囲」の解説
トルトーサの包囲は、ウマイヤ朝に対してルートヴィヒがカタルーニャ地方でウマイヤ朝に対して行った10年にわたる激しい活動の一部であった。801年にルートヴィヒがバルセロナを占領した後 、カロリング朝フランク王国はリュブラガート川を南の境界とし、ウマイヤ朝はエブロ川を北の境界とした。トルトーサは、この辺境地帯で最も重要なウマイヤ朝の要塞であり、事実上はカタルーニャにおいて最も遠いウマイヤ朝の前哨基地であった。 ルートヴィヒの作戦の年表は分かりにくく、さまざまな復元がなされている。 ラテン語で書かれたルートヴィヒの伝記である『フルドヴィチ記(Vita Hludovici)』には、トルトーサに対する3回の遠征が書かれている。アラブ人編年史家のイブン・ドハーリー(Ibn ʿIdhārī)とアフマド・ブン・ムハンマド・マッカリーは、AH192年-193年(西暦807年-809年)の期間にフランク王国がトルトーサを攻撃したことを2回記している。また、イブン・ハルドゥーンの『al-ʿIbar』やイブン・サイード・マグリビーの『al-Mughrib』にも、この作戦が記されている。 初めルートヴィヒは802年から807年の間にトルトーサを包囲した。 この攻撃はイスラム側のの情報源には言及がない。遠征中、ルートヴィヒはアデマール(Adhemar)、カール大帝の封臣イセンバルド(Isembard (vassal of Charlemagne))、ベラ(Bera, Count of Barcelona)、ボレル(Borrell, Count of Osona)の下に分遣隊を派遣し、エブロとシンカ川を襲撃した。 20日間にわたって、分隊はビラ・ルベア(Villa Rubea)を略奪し、田舎を荒廃させ、ムスリムによる軍隊を打ち負かしてから、主力軍に合流、ルートヴィヒは包囲を解き、アキテーヌに戻った。ルートヴィヒはこの都市を本気で攻めることはなかったようで、包囲のための兵器を使ったという記録はない。タラゴナは攻撃され、おそらくこの遠征で占領された。
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