西グルジア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 18:49 UTC 版)
「ロシア帝国下のグルジア」の記事における「西グルジア」の解説
イメレティ王ソロモン2世(英語版)はロシアのカルトリ・カヘティ併合に激怒した。彼は妥協として、ロシアがカルトリ・カヘティの王位と自治を復活させた場合、イメレティをロシアの保護領にすることを提案したが、ロシアは黙殺した。1803年にイメレティ領であったサメグレロ(英語版)の代官がソロモン2世に反乱を起こし、ロシアを保護者として承認した。ソロモン2世がイメレティ全体をロシアの保護領にすることを拒否すると、ロシアのパヴレ・ツィツィシュヴィリ(英語版)将軍がイメレティに侵攻され、1804年4月25日に条約に署名してロシアの臣下になることを認めざるをえなかった。 しかしソロモン2世は諦めていなかった。露土戦争が開戦すると、彼はオスマン帝国と秘密交渉を開始した。これに対してロシアは1810年2月に勅令を発して彼を廃位し、イメレティ国民にロシア皇帝に忠誠を誓うよう命令した。ロシアの大軍がイメレティに侵攻したが、イメレティの住民は森林地帯に逃げてレジスタンスをはじめた。ソロモン2世はオスマンとペルシアとの戦争を同時に遂行していたロシアがイメレティに自治を許可することに期待を寄せたが、ロシアはゲリラの反乱を鎮圧した。ソロモン2世自身は逃げおおせたが、ロシアのオスマン帝国とペルシアとの和約により外国の介入に対する望みは潰えた(ソロモン2世はナポレオン・ボナパルトにも声をかけたという)。ソロモン2世はオスマン帝国領のトラブゾンに逃亡、1815年にそこで死去した。 1828年4月から1829年9月まで続いた再度の露土戦争によりロシアはグルジアの良港ポティや要塞都市のアハルツィヘとアハルカラキを獲得した。1803年から1878年の数々の露土戦争により、グルジアが以前失ったアジャリアなどの領土がロシアに併合された。また1829年にはグリア公国(英語版)が、1858年にはスヴァネティ公国(英語版)が正式に併合された。サメグレロ公国は1803年以降ロシアの保護領だったが、正式に併合されたのは1878年のことであった。
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