古典古代文化時代とキリスト教化とは? わかりやすく解説

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古典古代文化時代とキリスト教化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:30 UTC 版)

グルジアの歴史」の記事における「古典古代文化時代とキリスト教化」の解説

コルキス王国」、「イベリア王国」、「コスロヴ朝(英語版)」、「グルジアのキリスト教」、「グルジア文字」、「ラジカ王国英語版)」、および「アーリアン・カルトリ(英語版)」も参照 紀元前6世紀以降黒海面する西グルジアの地にコルキス王国コルヒダ王国)が成立し黒海東岸ギリシャ植民市影響のもとで発展遂げた黒海カスピ海をつなぐ地峡地帯には交易路通り地中海ペルシア地域を結ぶ貿易さかんにおこなわれていた。現在ものこる港湾都市スフミはディアスクリア、ポティはファシス、バトゥーミはバトゥスの名で古代ギリシャ世界知られており、西方ミレトスからのギリシャ人入植したグルジアプロメテウス伝説上述金羊毛探索にかかわるアルゴ船漂流記など古代ギリシャ神話舞台となり、グルジア西部流れリオニ川は、ギリシャ人には「ファシス川」として知られヘーシオドスの『神統記』、ロドスのアポローニオス『アルゴナウティカ』ウェルギリウス『農耕詩』などには「海の航行東限」として記されている。 コルキス王国東側内陸部は、紀元前6世紀オリエント統一したアカイメネス朝ペルシアつづいてセレウコス朝一部となり、紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけてはイベリア王国カルトリ王国)が成立した伝説によれば最初イベリア王は、マケドニア王国アレクサンドロス3世大王)に対抗したとされるパルナヴァズ1世である。その領域今日中部グルジアカルトリ(カルタリニア)、東部グルジアカヘティ西南グルジアのサムツヘとその周辺であり、ここは、ギリシャ文明影響直接及ばない地域であった住民上述通り西方のアナトリア・コルキス方面から流入してきた人びと土着民との融合によって形成され人びとである。クラ川・アラグヴィ川(英語版)の合流点近く立地する首都ムツヘタは、現代ジョージア首都トビリシの北20キロメートル所在し、現在、町全体UNESCO世界文化遺産登録されている。なお、「ムツヘタ」の地名はこの地をひらいた首長ムツヘトスに由来するといわれている。 紀元前2世紀コルキス王国黒海東南海岸にあったポントス王国ミトラダテスによって制圧され紀元前65年にはそのポントス共和政ローマポンペイウス軍に敗れたことでコルキス西グルジア)はローマ属領となった。同じころ、東グルジアイベリア王国ローマ保護下に置かれた。ただし、その支配は緩やかで名目的なものであり、実際にペルシア影響およんだ1世紀入りキリスト教創始されると、グルジアでは12使徒による伝道おこなわれた伝えられており、伝説ではアンデレシモン熱心党のシモン)、マタイ宣教したといわれ、バルトロマイタダイグルジア来ていたと主張する文書もある。とくにローマ支配揺らいだ3世紀から4世紀にかけては大幅に信者増加した。これは、カッパドキア出身囚われ聖女ニノグルジアのニノ)の布教によって東グルジア多くの人が入信したことによるといわれている。 帝政ローマ衰退転じた4世紀西グルジアの旧コルキス王国一部現在のアブハジア地域)にはラジカ王国英語版)が成立し古代コルキス併合した。ラジカ王国正式名をエグリシ王国といい、首都をアルケオポリス(現、ノカラケヴィ(英語版))に置き、東ローマ帝国との結びつき強めた。この王国523年キリスト教受容し、562年東ローマ併合された。 イベリア王国では、330年代キリスト教深く帰依したコスロヴ朝(英語版)のイベリアミリアン3世英語版)によってキリスト教国教として採用された。世界で301年アルメニア王国つづいて2番目に古いキリスト教国教化の例である。キリスト教がこの地域の公式宗教となったことは、その後グルジア文化の影響大きな影響およぼした。なお、現在のアゼルバイジャンにあたる当時アルバニアカフカス・アルバニア王国)でも4世紀中頃キリスト教化しており、また、上述のとおり、ラジカ王国キリスト教受容はこれら3国より遅かった4世紀イベリア王国首都ムツヘタ建立されスヴェティツホヴェリ大聖堂は、正面装飾彫刻施されグルジア最古教会で、グルジア人の魂のよりどころといわれている。また、ミリアン3世が「山の頂に十字架建てよ」と命じたことから、ムツヘタ市街正面山頂十字架建てられ、のちにジワリ修道院建てられた。ジワリ(ジュヴァリ)とは「十字架の意味で、この修道院上空からみた平面形状十字形をなしており、6世紀から7世紀にかけての建立といわれている。 グルジア教会当初シリアアンティオキア総主教管轄下に置かれたが466年には独立教会となり、カトリコス総主教)の座はムツヘタ置かれた。5世紀グルジアでは当時一流哲学者イベリアのペトル活躍している。 グルジア文字カルトリ文字)は、中世年代記には紀元前3世紀のパルナヴァズ3世時代考案されたと記しているが、実際に4世紀から5世紀頃にかけての時期考案されたと考えられるグルジア語表記するために考案された独自の文字で、字形異なるもののギリシア文字と同じ原理文字体系をなしている。グルジア文字考案キリスト教改宗ならんでグルジアに独自文化基盤つくりだした現存する最古グルジア語文献は、5世紀書かれた『聖シュシャニク女王殉教』といわれており、当初このような宗教文学中心であった5世紀前半グルジア語最古碑文ベツレヘム発見されており、エジプトシナイ半島ではグルジア語写本大量に見つかるなど、古代グルジア人活動広範囲におよんでいたことが知られている。 イベリアは、一時ペルシア人支配受けたが、5世紀末には剛勇知られるヴァフタング1世(ヴァフタング・ゴルガサリ)によって主権回復されトビリシ都市的発展始まったトビリシグルジア語で「温かい」という言葉「トビリ」に由来しヴァフタング王がこの町を建設した際に温泉発見したことから名付けられたといわれている。トビリシには、ヴァフタング以前4世紀から5世紀にかけて「不落の城」という意味のナリカラ要塞建設されており、こののち幾度も外敵侵入からトビリシ救った6世紀初頭ヴァフタング1世の子ダチ英語版)王が父の遺言もとづきムツヘタからトビリシへの遷都おこなったトビリシでは、5・6世紀創建のアンチスハティ教会英語版)が最古教会で、7世紀中ごろにはシオニ大聖堂英語版)が建てられた。 カフカス地域アルメニアグルジアアルバニアの3教会は、431年小アジアエフェソス開かれたエフェソス公会議第3回全地公会)での、イエス・キリストは神そのものだとしてその神性のみを認める「単性説」の採用賛成した。ところが、東ローマ皇帝マルキアヌス召集し451年カルケドン(現、カドゥキョイ)で開かれたカルケドン公会議第4回全地公会)では単性説否定され、「まことの神であり、同時にまことの人でもある」としてキリスト神性人性との位格一致説くいわゆる両性説」が採決された。506年、3教会代表者アルメニアのドヴィン(英語版)に集まってカルケドン説に反対する旨の決議おこなったが、以前から「両性説」に傾いていたグルジア教会7世紀初頭には明瞭にカルケドン信条告白する立場立ったアルメニア正教会は、これに対しコプト正教会シリア正教会エチオピア正教会とともに非カルケドン派」にとどまり、これ以降ザカフカス地方キリスト教の宗派によって国や地域分立される状況常態化したのである

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