グルジアの歴史
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グルジアの歴史(History of Georgia)では、カフカス山脈(コーカサス山脈)南側のザカフカス(南コーカサス)地方に所在するグルジア/ジョージア(グルジア語:საქართველო(サカルトヴェロ))の歴史について解説する[注釈 1]。
注釈
- ^ 「グルジア」も「ジョージア」も英語表記は"Georgia"で全く同じである。2015年(平成27年)4月、日本政府は日本国内での国名表記を「グルジア」から「ジョージア」に変更した。
- ^ ディアスクリア(スフミ)はローマの初代皇帝アウグストゥスによって、のちに「セバストポリス」に改称された。
- ^ これを機に東ローマ帝国ではレオーン3世が帝位に就き、イサウリア朝が起こっている。J.M.ロバーツ(2003)pp.92-94
- ^ バグラティ(バグラチ)大聖堂は1691年、オスマン帝国軍の襲撃で破壊されたが、動植物のレリーフを刻んだ石は残っており、1994年にユネスコ世界遺産に登録された。「バグラチ大聖堂とゲラチ修道院」(1999)p.161
- ^ 奴隷としてカイロやイスタンブールに売られるグルジア人も少なくなかった。北川(1988)pp.276-277
- ^ 1659年にも反サファヴィー朝の民衆大反乱が起こっている。北川(1988)pp.276-277
- ^ パーヴェル1世はナポレオン・ボナパルトとの連携を頼りにカザーク部隊のインド遠征という無謀な企てに着手したため、グルジア併合宣言直後の1801年3月、首都総督パーレンの動かした近衛兵によってミハイル宮で暗殺された。和田(2002)p.203
- ^ スターリンは1930年5月にグルジア人のロミナゼをトビリシのザカフカス地方委員会に派遣して共産党組織の立て直しを図ろうとしたが、この人事をトビリシによるバクー支配の現れとみたアゼルバイジャン党委員会らの抵抗によって1930年11月、ロミナゼは失脚している。吉村貴之・野坂潤子「"新しい社会"の誕生」『コーカサスを知るための60章』(2006)p.123
- ^ メスフ人のなかには、グルジアへの帰郷をあきらめてトルコ大使館に亡命申請するグループがあらわれる一方、みずからを「オスマン帝国下でムスリムに改宗したジョージア人(グルジア人)」と規定してジョージアへの帰郷を果たそうというグループも現れた。1989年、ウズベキスタンのフェルガナ地方でウズベク人がメスフ人を襲撃して死者約100人、負傷者1,000人以上の犠牲者を出したフェルガナ事件が起こった。メスフ人たちは大挙して中央アジアから退避し、主としてロシアや北カフカスへの移住を余儀なくされたが、そこでも彼らの長期滞在化によって地域の住民とのあいだで軋轢を生んでいる。半谷史郎「故郷剥奪と流浪」『コーカサスを知るための60章』(2006)pp.126-127
- ^ 旧ソ連の崩壊直前に独立したバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)はCISには参加しなかった。
- ^ シェワルナゼは1970年代にグルジア共産党の指導者としてガムサフルディアを投獄している。前田弘毅「一人勝ちの危うさ」『コーカサスを知るための60章』(2006)pp.150-151
- ^ ガムサフルディアは戦死であるとも、隠れ家で自殺したともいわれ、詳細は不明である。前田弘毅「一人勝ちの危うさ」『コーカサスを知るための60章』(2006)p.150
- ^ のちにウズベキスタンが加わったため「GUAAM」と表記されたが、1999年、ウズベキスタンが脱退したため、GUAMに復した。
出典
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