王族間の結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/20 01:53 UTC 版)
「ダヴィッド・バグラチオン・ムフラニ」の記事における「王族間の結婚」の解説
2009年2月8日、トビリシの至聖三者大聖堂において、ロシア革命後もソ連に残留し生き残ったもう一つの王統、グルジンスキ家(英語版)のアンナ・バグラチオン・グルジンスキ(英語版)王女とダヴィッドの盛大な結婚式が、各国の外交官を含む3000人の招待客が招かれて執り行われた。グルジンスキ系統(カヘティ)とムフラニ家(英語版)系統(カルトリ)の王族同士の結婚は、王家の統合を意味し、ロシアをはじめとする海外メディアの注目も集めた。グルジア総主教イリア2世は、2007年10月に統一した国家を維持する道として立憲王制の復帰を求めており、この結婚はその第一歩となるはずであった。 しかし、グルジンスキ家とムフラニ家は長年王位継承を巡って争っており、アンナ王女の父ヌグザル・バグラチオン・グルジンスキ(英語版)とダヴィッドの間でもその問題が解決することはなかった。2009年4月20日付の「ジョージア・タイムズ」は、ダヴィッドとアンナ王女が離婚の危機に瀕し別居していると報じた。ヌグザル殿下も2人の結婚生活は困難な状況であることを認めた。2009年8月3日、ロシアの報道機関「Blagovest」は、2人は離婚したと報じた。アンナの母レイラ・キピアニ王女はノーコメントと取材に答えた。 2009年10月、ベネズエラで2人で休暇をすごしていたことが報じられた。 一方、ジョージアの内務大臣ヴァノ・メラビシヴィリ(英語版)は、この結婚は政略結婚で、もはや2人は夫婦ではない、と2010年4月7日付けのロシアの新聞「コメルサント」のインタビューで答えた。 2011年9月27日、2人の第一子ギオルギ・バグラティオニ(英語版)がマドリードで誕生した。世継ぎの誕生により、それまでの報道が噂やジョージアの王制復帰を政治的脅威ととらえたミヘイル・サアカシュヴィリ政権の仕掛けたデマであったことが明らかになった。王位継承問題では争っているヌグザルは、当初はギオルギを王位継承者として認めなかったが、2011年11月23日(聖ゲオルギオスの日)にグルジンスキ家の後継者として認めた。2012年2月2日、グルジアの歴史家や法学者からイリア2世に出された意見書では、ヌグザルがギオルギを王位継承者としたい旨が記されている。 2013年、夫妻は離婚した。
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