スブタイ
スブタイ
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スブタイ(スベエデイ、 Sübe'edei/Sübütei/Сүбээдэй、1176年 - 1248年)は、モンゴル帝国の軍人。ウリャンカイ部の出身。漢文では「速別額台」(スベエデイ)や「速不台」「雪不台」(スブタイ)とも表記され、ペルシア語資料では سوبداى بهادر Sūbdā'ī bahādur として表れる。名前に含まれるSübe'eは「脇腹」を意味する[1]。
- ^ a b c 『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』1、229-230頁
- ^ 『元朝秘史』上巻(小澤重男訳, 岩波文庫, 岩波書店, 1997年7月)、112頁
- ^ a b 本田「スブタイ」『アジア歴史事典』5巻、134頁
- ^ 『元朝秘史』下巻、61-62頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、133頁
- ^ 『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』3(村上正二訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1976年)、77,81頁
- ^ 『元朝秘史』下巻、132,152頁
- ^ 杉山2010,36-37頁
- ^ 杉山2010,34-35頁
- ^ 杉山2010,35頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、211,214頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、281頁
- ^ a b c d 杉山『モンゴル帝国と長いその後』(興亡の世界史, 講談社, 2008年2月)、151-154頁
- ^ 佐口『モンゴル帝国と西洋』、25頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、283-284頁
- ^ 佐口『モンゴル帝国と西洋』、26頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、291-292頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、296-297頁
- ^ 佐口『モンゴル帝国と西洋』、28-29頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、84頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、85-86頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、87,90頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、90-92頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、150頁
- ^ フィリップス『モンゴル史』、91頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、151頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、331頁
- ^ 元史 巻121
- ^ 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究正篇』(東京大学出版会, 2013年6月)、631頁
- 1 スブタイとは
- 2 スブタイの概要
- 3 ウリヤンカン部スブタイ家
- 4 外部リンク
スブタイ
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詳細は「スブタイ」を参照 ウリャンカイ部の人。ジェルメの弟で、兄に続いてチンギス・カンに仕えた。数々の戦功をあげて勇士として知られ、ホラズム遠征ではジェベとともにルーシまで達する別働隊を率いた。のちにバトゥのヨーロッパ遠征にも従軍した。 『集史』などのペルシア語史料ではسوبداى بهادر(Sūbdā'ī bahādur)、『元朝秘史』などの漢文史料では「速別額台」(スベエテイ)や「速不台」(スブタイ)とも表記される。 ちなみに、漢文史料である『元史』には「雪不台」なる人物の伝記が記載されているが、これもスブタイである。『元史』は間違いが多い歴史書として有名で、史家がスブタイの事跡を「速不台」と「雪不台」として、別人として分けて記録してしまっている。元々、漢字の名前でない人物を扱ったゆえの間違いである。もちろん『元史』には「速不台」の伝記も記載されている。
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