火器
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火器(かき、英語: Firearm)とは、火薬などのエネルギーを利用して飛翔体(弾丸など)を射出する装置。なお防衛省規格の「火器」には射撃統制器材に加え、器材ではないものの射撃及び弾道を含むが、本項ではそれらについては記載しない。
概要
火薬そのものの破壊力ではなく、その燃焼ガスの圧力を利用して飛ばした弾丸により、人員の殺傷、建造物・車両などの破壊、航空機の撃墜などの目的を果たす。
防衛省規格では口径20 mm未満の火器を小火器、20 mm以上の火器を火砲と分類している。小火器(銃、銃器)[1]の定義は「火薬類の燃焼ガスの圧力によって、飛翔体(弾丸など)を射出する装置のうち小形なもの。通常,口径 20 mm 未満の火器をいうが、最近では,口径が大きい擲弾発射器などの個人携行火器を含める場合が多い」であり、火砲(砲、砲熕武器:ほうこうぶき)の定義は「口径が 20 mm以上の火器」である。
軍事用語としての重火器については当該項目を参照のこと。
火器を用いた戦闘を火戦と言い、刀・槍・ナイフ、銃剣などによる白兵戦と区別する。
脚注
- ^ 「銃」または「銃器」は小火器の別名である
参考文献
関連項目
外部リンク
火薬兵器
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詳細は「宋朝科学技術史」を参照 宋金戦争では、火薬兵器の発明と使用が促進された。初期の火器の一つである火槍は、宋が金の1132年徳安攻囲戦に対して使用したという報告がある。この武器は、竹や紙で作られた筒から火炎放射器を発射できる槍を取り付けたもので、これは、徳安を守る宋軍を率いた陳規の指揮下にあった兵士が作ったものである。宋兵が徳安で装備した火槍は、金の木製の攻城塔を破壊するために作られたもので、金の歩兵と戦うためのものではなかった。宋兵は、金の攻城塔への攻撃のタイミングを計り、火槍の射程距離に入るまで待つことで、武器の射程距離と機動力の制限を補った。その後の火槍は金属製の砲身を使用し、より遠くへ、より強い力で発射され、歩兵に対しても使用できるようになった。 霍泡のような初期の初歩的な爆弾や、トレビュシェット(投石機)で発射する火砲なども焼夷弾として使われていた。1126年の第一次開封攻囲では、防衛側の宋軍が「火礮」を使用した。また金側は攻城塔から焼夷弾を城下に投下した。1127年には、徳安を守る宋軍と包囲する金軍の間で「火礮」が使用された。政府の役人である林子平は、焼夷弾と焼夷矢を宋の海軍のすべての軍艦に義務付けることを提案した。1161年の采石磯の戦いでは、宋の船は霹靂火球を発射した。完顔迪古乃が指揮する艦隊の船に対して砲台から霹靂火砲とも呼ばれていた。この爆弾の火薬混合物には、粉末状の石灰が含まれており、爆弾の包装が砕けると催涙性の煙が発生した。宋は同年の唐島の戦いでも焼夷弾を投入した。 1206年、襄陽に駐留していた宋軍が火矢にも火薬を用いた。この矢は焼夷弾であった可能性が高いが、その機能は初期のロケットに似ていた。1221年の金の蘄州攻囲戦では、金は爆弾と火薬矢で宋と戦ったとされる。金の鉄火砲は、鋳鉄製の包装を持つ、最初に知られた硬い包装の爆弾である。この爆弾は、鉄製の包装を貫通して起爆する能力が必要だった。宋軍は焼夷弾を大量に持っていたが、金のような爆弾に似た武器を持っていたという報告はない。蘄州の宋軍は3000個の火礮の武器を持っていたと、攻囲戦に参加した者が『辛巳泣蘄録』に記した。また、火薬を詰めた革袋と思われる20000個の「皮大鑊」もあった。
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