火薬の除去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 03:46 UTC 版)
4月20日夜、イギリス海兵隊がウィリアムズバーグ火薬庫に行って、15樽半の火薬を総督の荷車に積み、ジェームズ川に浮かぶHMSマグダレンに積み込むべくクォーターパス道路の東端まで運んだ。この動きが行われている間に町の民に見つかり、民衆は警鐘を鳴らした。地元の民兵が現場に集まり、馬を使う者達が植民地中にその事件を触れ回った。ダンモアは予防処置としてその従僕達にマスケット銃で武装させており、群れ集まった群衆が総督官邸を襲うのを妨げたのは、バージニア植民地議会の議長であるペイトン・ランドルフを初め愛国的指導者達の冷静化を求める呼びかけだった。市政委員会が火薬は植民地の財産であり、イギリス国王のものではないと主張して、火薬の返還を要求した。ダンモアは、噂のある奴隷蜂起のときに火薬が捕獲されることを防ぐために移動させたのであり、後で戻すことになると述べて、要求を拒んだ。このことで集結した群衆を納得させたように思われ、群衆は平和的に解散した。 しかし、ウィリアムズバーグでの動揺は続いており、それが田園部にまで広がった。再び集まった群衆が愛国的指導者の説得で散開した後、ダンモアは怒りを覚え、4月22日にはもし攻撃されたならば、「奴隷に対して解放を宣言し、ウィリアムズバーグ市を灰燼に帰させる」と警告した。またウィリアムズバーグ市の議員には、ダンモアが「かつてバージニアの民のためい戦った」が、「神にかけて、彼らと戦うこともできることを見せてやる」とも告げた。 4月29日までに田園部で動員された民兵隊は、レキシントンとコンコードで戦闘が行われたことを知った。フレデリックスバーグには700人近い者が結集し、首都ウィリアムズバーグに向けて行軍する前に事態を評価するための使者を派遣することにした。ペイトン・ランドルフは暴力に反対することを伝え、バージニア民兵隊の指揮官を長く務めたジョージ・ワシントンも同意した。彼らの助言に反応してフレデリックスバーグの民兵隊は僅差による票決によって行軍を止めた。しかし、植民地の他の地域の民兵隊はウィリアムズバーグに向けて行軍した。パトリック・ヘンリーが指揮するハノーバー郡の民兵隊は5月2日の票決でウィリアムズバーグへの行軍を決めた。ヘンリーは、バージニアの王室税務局収税官補であるリチャード・コービンの家に小さな中隊を派遣し、国庫から火薬の代金を払わさせるように仕向けた。約150名になったハノーバー郡民兵隊の残りはウィリアムズバーグへ行軍し、5月3日には市から約15マイル (24 km) の地点に到着した。この日、ダンモアの家族はウィリアムズバーグを脱出して、ヨーク川沿いにあるダンモアの狩猟用小屋であるポートベロに向い、そこからヨーク川に停泊していたHMSフォーイーに移った。 コービンは自宅に居らず、ダンモアと会見するためにウィリアムズバーグに居た。ヘンリーはコービンの義理の息子で植民地会議の愛国者議員であるカーター・ブラクストンから市内に入らないよう助言され、その間にブラクストンが馬で町に入って代金支払の交渉を行った。翌5月4日、ヘンリーは火薬の代金として裕福なプランテーション所有者が署名した330ポンドの為替手形を受け取った(彼は王室勘定からの支払の申し出を拒否した)。ヘンリーはその後フィラデルフィアで開催される第二次大陸会議のバージニア代表として出席するためにバージニアを離れ、その金を「大陸会議に出ているバージニア代議員団」に渡すことを約束した。5月6日、ダンモアはヘンリーが330ポンドを恐喝で奪ったとして告訴することを発表し、市民には如何なる方法でもヘンリーを支援することを禁じた。ヘンリーは幾つかの郡から保護の申し出を受け、フィラデルフィアに向うことができるよう、メリーランド植民地との国境まで数個民兵中隊に護衛されて行った。
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