多民族軍の構築
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 06:29 UTC 版)
清の統一を可能にしたのは、満洲人が少数派である多民族軍であった。清は明軍からの亡命者を得るために、満洲人が軍事能力に優れていることを宣伝した。清に投降した明の将校は階級の保持が認められ、貴族の地位や銀、馬、官職も与えられた。李永芳が降伏した時は明よりも高い地位を与えられ、家臣として自軍を保持することも認められた。孔有徳や尚可喜、耿仲明も自軍の保持を認められた。貴族の地位と軍事階級や銀、馬、官職が、長寸任や孫定遼、劉武元、劉良臣、祖沢洪、祖沢溥、祖可法、祖沢潤のような投降者に与えられた。投降した他の漢人将校には、馬光遠や呉汝玠、祖大寿、全節、祖沢洪(中国語版)、祖沢溥、祖沢潤、鄧常春、王世選、劉武元(中国語版)、祖可法、張存仁(中国語版)、孟喬芳、孫定遼がいた。 こうして多くの漢人が清に帰順し、1644年に明を攻撃した軍は、漢軍八旗・蒙古八旗・満洲八旗をともなう多民族編成だった。政治的な壁は民族性ではなく、八旗に属さない漢人と漢軍八旗や、選民と庶民の間にあった。マスケット銃や大砲のような火薬兵器は、漢軍八旗が主に使用した。八旗の中では漢軍八旗が75%を占めるようになり、満洲八旗は1648年にはわずか16%と少数派であったが、八旗制の中では高い地位にあった。
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