多民族都市としてのイスタンブール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 21:13 UTC 版)
「メフメト2世」の記事における「多民族都市としてのイスタンブール」の解説
町の復興にあたっては、東ローマ時代からの市民は保護を受け、帝国各地の異なる民族をイスタンブールに移住させた。イスタンブールにはイスラム教徒だけでなく、独自の技術と人脈を持つギリシャ・アルメニアのキリスト教徒やユダヤ人も集められ、イスタンブールは他文化が共存する町となった。東ローマ時代からの住民であったギリシャ人には手厚い保護が与えられ、イスラム教徒から不満が起こるほどだった。 しかし、アナトリアの住民の間にはイスタンブールの発展と移住に対する抵抗が見られ、時折強制移住策が実施された。また、ジハードの継続を主張する人間の中には、依然としてヨーロッパ征服の前線基地であるエディルネを首都に置くことを支持する意見もあった。メフメトの治世から民衆の間に「イスタンブールは呪われた町である」という噂が流れ、その噂の中ではメフメトの革新的な政策が批判された。
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