イラク、カフカス、ルーシへの遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 13:38 UTC 版)
「スブタイ」の記事における「イラク、カフカス、ルーシへの遠征」の解説
1219年からのホラズム・シャー朝の遠征においては、ジェベと共にホラズム王アラーウッディーン・ムハンマドの追撃を命じられ、彼を追って西に進んだ。スブタイはホラーサーン地方に進んでホラーサーンからクーミス(英語版)に至る地域に点在する都市を略奪し、モンゴル軍の略奪や破壊の利益に与ろうとする軍人やならず者たちがスブタイらの軍に加わっていった。スブタイはレイで行動を別にしていたジェベと合流して町を略奪し、アラーウッディーンが逃亡したマーザンダラーンに侵入する。スブタイたちはゴムを略奪し、ガズヴィーンでは占領後に住民たちからの攻撃を受け、およそ40,000人の民衆を殺害した。 1220年12月にアラーウッディーンはカスピ海上のアバスクン島(英語版)で没するが、スブタイとジェベはムハンマドの死を知らないまま進軍を続け、アラーウッディーンの逃亡先と推測した北イランと南コーカサスに攻撃を行った。アゼルバイジャン地方に進んでこの地を支配するイルデニズ朝(イル・ドュグュズ朝、イルデギズ朝)を屈服させ、隣接するグルジア王国を攻撃する。グルジア攻撃は1220年から1221年にかけての冬に行われ、春になるとスブタイらはアゼルバイジャンに戻ってイルデニズ朝から物品を徴収した。追撃隊はマラーガ、イルビル、ハマダーンなどのイラン・イラク北部の都市とアゼルバイジャンを襲撃するが、タブリーズでは市民の頑強な抵抗に遭って退却する。1221年10月にアッラーン(英語版)地方のバイラカーンで虐殺を行い、アッラーンの中心都市のギャンジャに迫るが、ギャンジャの市民が戦闘に長けていることを知ると貢納を受け取って退却し、再びグルジアを攻撃した。 1222年後半にスブタイらはデルベントを越えてカフカス北麓に到達し、現地に居住するアス人、レズギン人、チェルケス人、キプチャク人の連合と衝突した。モンゴル軍はキプチャク人を買収して連合軍を破った後、残ったキプチャク人を攻撃して彼らの居住地であるキプチャク草原に侵入した。キプチャク人はモンゴルから逃れるために西方に移動し、キプチャク人の族長の一人コチャンは義父であるガーリチ公ムスチスラフに助けを求めた。ムスチスラフはコチャンの要請に応え、キエフにルーシ諸侯を集めて連合を結成した。1223年5月31日にカルカ河畔でスブタイ、ジェベはルーシ諸侯・キプチャクの連合軍と戦い、大勝を収めた(カルカ河畔の戦い)。カルカ河畔の戦いはモンゴルとヨーロッパ世界の間に起きた最初の軍事的接触であり、後のモンゴルのヨーロッパ侵攻(英語版)の動機になる。 カルカ河畔の戦いの後にクリミア半島に侵入し、交易都市として繁栄していたスダクを攻撃した。やがてスブタイたちはヴォルガ川を北上してブルガール地方に到達する(モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻)。ヴォルガ・ブルガール人から強固な抵抗を受け、スブタイらは東方に帰還し、イルティシュ川流域で遠征の帰路についていたチンギスと合流した。スブタイ、ジェベらが率いたモンゴル軍の情報と噂はルーシを経てヨーロッパに伝えられた。
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