イラクの創造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 00:07 UTC 版)
1917年3月10日のイギリス軍のバグダード占領後、ベルはコックスによってバグダードに召喚され:274–276、「弁務官担当東方書記」の地位を与えられた。これ以降、1926年に没するまでバグダードは彼女の人生の中心であり続けた。バグダードでの当初のベルの仕事は情報収集し、正確さを評価・解釈し、凝縮して伝えるという情報機関の情報員の典型的な仕事であった。 現代では女性としての障害があったのか、結果的に特別な地位を得ることができたのかの判断は難しいが、原則として「名誉男性」として扱われ、イスラム教の最高位者にも認められていた。いずれにせよ、彼女ほど部族間の関係、政治的な対立、意図についての最新の知識を持っていた人はほとんどいなかったし、彼女ほど個々の部族の指導者に決定的な影響を与えられる立場にあった者はほとんどいなかった。その功労が認められて、1917年10月に大英帝国勲章のコマンダー(司令官)の勲章を授与されていた。 カイロでの彼女の同僚であるデビッド・ホガースは後に、彼女の情報が1917年と1918年のアラブ蜂起の成功に大きく貢献したと指摘している。オスマン帝国解体の方針が1919年1月下旬までに最終決定されたので、ベルはメソポタミアの状況分析を行う事になった。彼女はその地域の部族の関係をよく知っていたため、イラクで必要とされるリーダーシップについて強い考えを持っていた。彼女はその後10カ月間を費やして、後に見事な公式報告書と評された「メソポタミアにおける自己決定」を執筆した。メソポタミア駐在のイギリス弁務官アーノルド・ウィルソン(英語版)は、イラクの運営方法について異なる考えを持ち、まだ、メソポタミア人は効率的かつ平和的に国を統治し、管理する準備ができていないと感じており、実際の支配権を保持するイギリス当局の影響を受けるアラブ政府を望んだ。アラブ人の陳情を多く受けた後、ロレンスとともにパリ講和会議に参加、アラブ人への公約を果たすべく尽力を重ねるが、実らなかった。すでに1917年英仏間でサイクス・ピコ協定が締結されており、列強間の利害の前に中東の地はイギリスとフランスの委任統治領として分割が決まった。 この間、1918年には、小アジア、シリア、アラビア、ユーフラテスの探検に功績があったとして、王立地理学会から金メダルを贈られた。 ベルのイラク統治政策の基本理念は「イラク統治ではシーア派を登用しない」というものだった。この理念はバグダードのスンナ派のある部族のナシーブ(名家)の長をベルが訪ね、イラクの統治についての意向を探った時のナシーブの長の意見を踏襲したものである。しかし、イラクの人口の5割を超えるシーア派の排除は、その後のイラクに大きな負の遺産を残す事になる。 バグダード陥落後、イギリスは主任政務官パーシー・コックス(Percy Cox)、弁務官代理ウィルソン(Arnold Talbot Wilson)を派遣した。この2人がメソポタミアの地を治める事になるが、部族や軍閥間の主導権争いに翻弄され、何ら有効な対策を打つ事もできなかった。この時の同僚に後のサウジアラビア王室顧問のジョン・フィルビーがおり、ベルはフィルビーを高く評価している。1920年6月、ナジャフでスンナ派とシーア派が手を携え、反英暴動(英語版)が勃発する。きっかけは前年イギリスがペルシャと同国への借款と引き換えにペルシャの軍事権をイギリスが握るという内容の協定を結び、これにナジャフが危機感を募らせたことである。 弁務官代理ウィルソンは秋までに暴動を鎮圧したもののイギリスは民政移管を考慮せざるをえなくなり、ペルシャ公使に転任していた前政務官コックスを高等弁務官としてバグダードに呼び戻す事になる。1920年10月11日、パーシー・コックスはバグダードに戻り、彼女に来るべきアラブ政府との連絡役として弁務官担当東方書記を続ける様依頼した。ガートルード・ベルは基本的にアラブ政府とイギリス政府関係者との間の仲介役を務めた。ベルはしばしば南部のシーア派、中部のスンニ派、北部を中心とした自治を望むクルド人などのイラクの様々なグループの間の仲介をしなければならなかった。これらのグループの結束を保つ事はイラクの政治的バランスを保つためにも、またイギリスの帝国主義的利益のためにも不可欠な事であった。イラクには石油という貴重な資源が存在しただけではなく、トルコ、ペルシャ(イラン)、シリアから保護するための常備軍として北部のクルド人の助けを借りた上で緩衝地帯として機能する事になっていた。ロンドンのイギリス当局者、特にチャーチルは部族内紛を鎮圧するコストを含む植民地の重いコストを削減する事に非常な関心を持っていた。イギリス人と新しいイラク人支配者の両方にとってのもう一つの重要なプロジェクトは、これらの人々がひとつの国家として自らを認識する様、新たなアイデンティティを創出する事であった。 イギリス当局は自分たちの統治戦略がコストを増大させており、イラクを自治国家とした方が安上がりである事にすぐに気付いた。 1921年のカイロ会議は後のイラクおよび近代の中東の政治的・地理的構造を決定するために開催された:365–369。 ガートルード・ベルはそれらの議論の中で重要な論点提供を行い、議論形成に不可欠な役割を果たしたのである。カイロ会議のベルとロレンスは戦争中にイギリスを助け、アラブ反乱の頂点でダマスカスに入ったアラブ軍の元司令官であるファイサル・ビン・フセイン(メッカの太守フセインの息子)を強く推薦した。当時、彼はフランスにシリア王を退位させられていたが、カイロ会議でイギリスの関係者は彼を初代イラク王にする事を決めた。ハシェミットの血統と外交手腕から、彼は尊敬され、国内の様々なグループを統合する能力を持っていると考えられていた。彼がムハンマドの血統を受け継いでいる事から、シーア派の人々は彼を尊敬するだろうし、彼が尊敬される家系であったためクルドを含むスンニ派も彼に従うだろうと考えられた。イラクのすべてのグループを支配下に置く事は大英帝国の政治的・経済的利益のバランスをとるために不可欠であった。 1921年にファイサルがイラクに到着すると、ベルはファイサルに部族の地理やビジネスに関する問題など地元の問題に関する助言を与えた。また、ベルは新政府の内閣やその他の指導的ポストの任命者の選定も監督した。アラブ人から「アル・ハートゥン」(国家の利益のために耳目を開く宮廷女性)と呼ばれた彼女はイラクのファイサル王の親友であり、彼の治世の開始時にイラクの他の部族の指導者との間で、彼の役割への移行を容易にする事を手助けした。 ファイサル王は彼女自身のささやかな遺物コレクションからバグダードのイラク考古学博物館を設立し、遺言で得た収益を発掘プロジェクトの寄付金に充てるためイラクのブリティッシュ・スクール・オブ・アーキオロジーを設立する事を支援した。膨大な量の書籍、通信、情報報告書、参考文献、白書を執筆するストレスやイギリスやアラブの集団との長年の喫煙による気管支炎、マラリアの発作の繰り返し、夏のバグダードの猛暑への対応などのすべてが彼女の健康を蝕んだ。やや虚弱だった彼女はやせ細り、衰弱した。 歴史家は、現在のイラクの問題がベルが考え出した政治的境界線に由来すると指摘している。しかし、彼女の報告書によれば問題は予見されていたことを示しており、ベルも彼女のイギリス人同僚も分裂した勢力を鎮める恒久的な解決策は(あるとしても)多くはないと考えていたのである。しかし、少数派のスンニ派が多数派のシーア派を支配するためのロビー活動が、その後のスンニ派独裁政権のきっかけを作った。また、彼女の同僚たちはクルド人から祖国を奪い、その一部をイラクに編入すべきだと主張したがベルはこの分割にも反対しなかった。クルド人がイラク、シリア、トルコに分割された事で3カ国で弾圧される事になり、ベルはクルド人に対する武力行使を支持した。ベルは「メソポタミアは文明国家ではない」と1920年12月18日に父親への手紙で書いている:413–419。 ベルは1920年代初頭を通じてイラクの統治に欠かせない存在であった。 新たなハーシム君主制はシャイフ旗を用いていたが、これはアッバース朝のカリフを示す黒の縞、ウマイヤ朝のカリフを示す白の縞、ファーティマ朝の緑の縞、そして最後に3つの縞をまたぐイスラム教を象徴する三角形で構成されていた。ベルはこのデザインに金星を加えた物をイラク国旗とする事不可欠だと感じた:149。1921年8月23日にファイサルはイラク王として戴冠したが、完全に歓迎された訳ではなかった。聖なる月であるムハッラムの間、ベルはシーア派の歴史を想起させる事でファイサルへの支持を得ようと、ファイサルのバグダード到着をムハンマドの孫フサインになぞらえた。しかし、ファイサルがシーア派地域バスラの港に上陸した時、彼に対する熱意はほとんどなかった。 彼女は新しい国王と仕事をする事は簡単ではないと感じた。「あなたはひとつの事だけ信頼できる。私は二度と王を創造しない。あまりにも負担が大きすぎる。」ファイサルはベルを含むイギリスの顧問の支配から逃れようとしたが、限定的な成功しかおさめられなかった。
※この「イラクの創造」の解説は、「ガートルード・ベル」の解説の一部です。
「イラクの創造」を含む「ガートルード・ベル」の記事については、「ガートルード・ベル」の概要を参照ください。
- イラクの創造のページへのリンク