その後のイラク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 19:04 UTC 版)
「ファトホル=モビーン作戦」の記事における「その後のイラク」の解説
一方のイラク側はこれまでに十数万人の死傷者や捕虜を出し、戦車400輌が破壊もしくは放棄するなど損害甚大であった、特に人的資源は枯渇する危険性(当時のイラクの人口は約1,320万人)があり、やがてイラク人(特にイラク・バアス党の支持基盤であるスンナ派イラク人)を出し惜しみするようになり、アラブ諸国からの出稼ぎ労働者(エジプト系移民及び出稼ぎ労働者が約10万人、同じくエチオピア、ソマリア等の移民及び出稼ぎ労働者約100万人)を軍事労務者をして徴用したが、やがて彼らを最前線での道路工事や陣地構築などの最中に事実上の兵役に就かせる状態となった。当然彼らは軍隊経験が無い者もおり、半ば強制的に戦わせられるため士気も訓練も不十分、以後のイラク軍は前述のような素人兵で構成されるようになった。 さらに、重火器の損失を埋めるべくフランス、ブラジル等からの兵器購入を推進していたが、イラクを支えることでイラン・イスラム革命の波及を押し留めることが可能と判断した米ソ両国から援助を受けることとなった。
※この「その後のイラク」の解説は、「ファトホル=モビーン作戦」の解説の一部です。
「その後のイラク」を含む「ファトホル=モビーン作戦」の記事については、「ファトホル=モビーン作戦」の概要を参照ください。
- その後のイラクのページへのリンク