その後のイギリス軍の行動
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「クリントン砦とモントゴメリー砦の戦い」の記事における「その後のイギリス軍の行動」の解説
この戦闘の後、イギリス軍のジェイムズ・ウォレス大尉は大陸軍が仕掛けた川の障害物の撤去を始めた。10月13日までにハドソン川の北、エソパスまで障害物が無くなったことを報告できた。ヘンリー・クリントンはその時までに病気のためにニューヨークに戻っており、ジョン・ボーン将軍に砦の指揮を任せた。援軍を乗せた輸送船を北に送ることが遅れたために、ボーンと1,700名の兵士を乗せた小船隊が出発したのは10月15日になってからであり、ヘンリー・クリントンからはハドソン川を遡り、バーゴイン将軍の動きを探ってその作戦を支援すること」という命令が出ていた。この部隊はその夜エソパス近くで停泊した。この動きがサラトガで進行していた降伏交渉を加速させたという考え方がある。馬を使った通信であってもその速度が鈍いために、ゲイツ将軍が10月17日に降伏条件で合意を得るまでにこの動きを知りえた可能性は低い。バーンの部隊は翌日にエソパスの町を焼き、さらに北に進んで著名なパトリオット一族の本拠地であるリビングストン荘園を襲撃した。この艦隊は東岸のパットナム隊によって追跡されていた。パットナム隊はコネチカットからの民兵隊が加わってかなり増強されており、ボーン隊に十分な威嚇を与えたので、ボーンは舟艇に引き上げることになった。 10月17日、ヘンリー・クリントンはハウ将軍から3,000名の援軍要請を受け取った。おそらくワシントン軍がジャーマンタウンを攻撃して失敗した後、フィラデルフィア占領を支援するために要請された。ニューヨークの守備軍は既にハドソン川侵攻で手薄になっていたので、クリントンはボーンと2つの砦の守備隊を呼び戻した。砦は破壊され、守備兵は10月26日に砦を明け渡した。
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