降伏交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 10:09 UTC 版)
「欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)」および「ヨーロッパ戦勝記念日」も参照 大統領となったデーニッツは、既にドイツがその体制を維持できず、もはや降伏以外に道がないことを承知していた。そして、デーニッツはドイツの最高指導者の地位の継承が「ヒトラーには出来なかったことを成すこと」と了知していた。しかしソ連に降伏した国防軍兵士や難民がソ連軍兵士からの虐殺など容認しがたい被害を受けているとの事実を、難民らからの聞き取りとソ連軍の占領していた村などをドイツ軍が奪還してからの実地調査から、「殺人、放火、拷問、暴行、略奪」の報告を海軍法務局から既に受けていた。このため、デーニッツは西方(イギリス軍やアメリカ軍の占領地)での投降は受け入れられるが、東方(ソ連軍)では戦闘を継続し、ソ連側に取り残されている市民や兵士の本国と西方占領地区への避難のルートと時間を確保するべきだと考え、部分的な降伏を画策し、東部地域での戦闘継続を画策した。 彼の意向を受けたOKW総長ヴィルヘルム・カイテル元帥及びOKW作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将は、西側から侵入する米英軍の方へドイツ軍の残存兵を移動するよう命令した。 5月6日、デーニッツはヨードルに連合軍に対する国防軍の降伏文書に署名する許可を与えた。翌5月7日、対米英仏連合軍への降伏はフランスのランスにおいて調印され、5月8日午後11時1分が停戦発効時間であると定められた。しかし連合軍がベルリンで降伏文書を批准する調印式を要求したため、国防軍代表のカイテル元帥、海軍代表フォン・フリーデブルク大将、空軍代表シュトゥムプフ上級大将らを派遣した。ベルリン時間で5月9日午前0時15分(ロンドン時間5月8日午後11時15分、モスクワ時間5月9日2時15分)、ベルリンのカールスホルストにおいて降伏批准文書が調印された。これらの文書に署名したのは国防軍の軍人のみであり、政府の代表者の署名は行われなかった
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